カナダ留学
過去の出来事に対して、「もしも」と問うことは無意味である。
しかし、この時期のアグネスに関して、問わずにはいられないことがある。
「もしも、あの時期、アグネスの父親が亡くならなかったら、彼女は一体どういう進路を選択しただろうか?」
1976年9月。
トロントに移り住んだ当初、アグネスは長兄の家に寄宿していた。が、すぐにアパートを借り、独立する。兄夫婦が同居に難色を示したこともあり、また勘ぐれば、兄嫁との折り合いの悪さも手伝ったに違いない。とにかく、第二の異国の地での単身生活が始まった。もっとも、「単身」といっても、姉アイリーンと一緒だったが。アイリーンは、アグネスに触発され、自分も大学に行くことを決心してカナダに残ったのである。
ところで、実際的な面で、アグネスの引退-留学を心から喜んだのはアイリーンだった。アグネスの私設マネージャ的役割からとうとう開放されたのだ。ようやく自分の生活を取り戻すことができたアイリーンは、翌年結婚に踏み切る。アグネスの引退は、外にあって大きな波紋を呼んだが、内にあっても同様だった。しかし、それは家族それぞれに幸福をもたらすものだったのである。(第6章)
カナダでの生活は、アグネスにとって、夢にまで見た生活であった。
誰に束縛されることなく、自分で自分の生活を律することのできる素晴らしさを、アグネスは満喫することになった。今までは、何なから何まで、誰かに面倒を見てもらう生活だったため、生活必需品や食料品の買い出しといったことにさえ、当初とまどいを隠せなかったようだ。しかし、そんな苦労をしても、生活は希望に満ちていた、と彼女は著書の中で語っている。
常につきまとっていた他人の視線から開放され、一日24時間を全く自由にできる生活は、アグネスが、「One of one」から「One of
them」へ変わったことを実感させた。ここトロントでは、自分は特別な存在ではない。小柄で目立たない一人の中国女に過ぎないのだ。「歌手」とか「アイドル」といったレッテルを貼られた商品、「アグネス・チャン」ではなく、どこにでもいる、二十歳過ぎの平凡な香港娘、「陳美齢」がいるだけなのだ。彼女はそれまでの「アグネス・チャン」に訣別し、「陳美齢」として再出発しようとしていた。この先、彼女は一人の女として、さまざまな出来事に遭遇していくだろう。しかし、彼女はそれらすべてを受け入れる覚悟でいた。なぜならば、それこそ、彼女が長年望んでいたことだったからである。
それまでの不規則な生活から、一転規則正しい生活に戻って、アグネスは4kg太ったという。一見華やかな芸能界が、実はいかに過酷な世界であるか、のひとつの証左である。
大学は最終的にトロント大学に決まった。カナダの大学は3年制だった(高校が4年制のため)。アグネスは、上智ですでに2か年履修していたので、それが認められれば、カナダでの履修は1年間でよかった。彼女も、最初はそのつもりだったようだ。それで、上智での履修実績をトロント大側に認めさせるため、いろいろ苦労したようだ。その結果、彼女の主張は認められることになったが、彼女が望んだ心理学の専門課程は、第4年にまで進まないと履修できなかったため、結局2年間通うことに決心した。
トロントでの勉強は予想外に大変だったようだ。英語にさえ苦労したという。授業のシステムが違う上、レベルは高く、宿題やテストも多かった。またこちらでは、心理学は理系の学問であり、統計などの数学的手法を必要としたために、苦手な数学までやらなければならないはめになった。毎日のように図書館に通い、教科書や参考書を脇に、レポート用紙と格闘する毎日が続いた。しかしその苦労は、アグネスにとって苦痛ではなかった。
最初は授業に追いつけずにすらいた。もっとも、彼女が狙っていたレベルはかなり高く、ある時など、テストの点数が、100点満点で70点をきって泣いたという。それでも歯を食いしばって、追いつこうと日夜勉学に励んだ。
もちろん生活のすべてを勉学に捧げたわけではなかった。時間を見つけては、水泳をやり、ジョギングをし、郊外に出かけては雄大なカナダの自然を満喫した。トロントとは、オンタリオ湖をはさんでちょうど対岸に位置するナイアガラの滝へ足を運んだのも、一度や二度ではなかった。運転免許取得にチャレンジし、「苦難」の末、手にすることもできた。
しかし、アグネスにとってなによりも嬉しかったのは、新しい友達ができたことだったという。彼女は、ごく親しい何人かを除いて、自分の過去を話さなかった。だから、彼らは、彼女のことを、「歌手」「アイドル」でなく、一介の女性として見た上で、友達と認めてくれたわけである。このことが、アグネスにとっては無上の喜びであった。自分は「歌手」や「アイドル」という肩書きがなくでも認められたんだ、ただの女として、認められたんだ。「アグネス・チャン」という怪物の影で怯えていた「陳美齢」は、初めて息をつける思いだった。
「・・・カナダ人のほかにも、いろんな国の人と大学でお友達になれたけど、みんな、ふつうの女の子としてわたしを愛してくれたの。お友達は自分の鏡でしょう。だから、わたしもアグネス・チャンじゃなくて、ふつうの女の子としてもvalueがあるということがわかって、自信がもてるようになったのね。それからは、素直にありのままにふるまえるようになりました」卒業して日本に戻った後、ある雑誌のインタビューでアグネスはこのように語った。
もちろん日本のファンも忘れたわけではなかった。ファンレターは引きも切らずやってきた。手紙のほかに、味噌や煎餅など日本食を送ってくるファンもいた。中にはわざわざカナダまで、アグネスを訪ねていった剛の者もいたようだ。アグネスは彼らを暖かく迎え、一人一人食事をともにしたという。
また、その年の暮れ頃には、素敵な男性とも出逢ったようだ。その彼にときめく胸の内が、彼女の著書にも記されている。
「ごく普通の女子大生」の「ごく普通の学生生活」 アグネスの少し遅い青春は、いま見事に花開き、このまま輝かしい未来に突き進むかに見えた。
しかし、一本の電話が、すべてを変えた。
それは、カナダに移り半年ほどが過ぎた、1977年2月下旬のことだった。渡辺音楽出版との約束で、ロサンゼルスにLPのレコーディングに行き、戻った矢先、香港の実家から電話がかかってきた。
「父、重篤。スグ帰レ」
何かも放り出して、アグネスは香港に急行した。そのアグネスを待っていたのは、やつれ果てた父、陳燧棠の姿だった。
「早く元気になって! 死なないでっ!」
しかし、アグネスの必死の願いもむなしく、燧棠は逝った。「お母さんと二人の弟を頼む」の言葉を残して。
1977年3月24日のことだった。(第1章参照)
父、燧棠の死は、アグネスに深甚な影響をもたらした。最愛の人をなくした悲しみは容易に消えることはなかった。彼女の、人生という無明の航海で、父は唯一の灯台だった。進路を示し、行く末を照らし、希望を与える光だった。その光が突然消えたのだ。
アグネスは、父という存在が、自分の中でいかに大きな存在であったか、改めて痛感させられる思いだった。しかし、どんなに望んでも父はもはや帰ってこない。これからは自分で進んでいかなければならない。自分の羅針盤を頼りに、ひとり、航海を続けていかなくてはならないのだ。自分だけではない。母や二人の弟のこともある。
アグネスの長兄はすでに結婚し、自らの家庭を持っていた。二人の姉のうち、長姉のアイリーンは結婚が決まり、家を出ていく(父の死のため、結婚式は予定よりも1年遅れて1978年5月になった)。次姉、ヘレンの結婚も近く、いずれ家を出る。残された母と二人の弟の面倒を見ることが、アグネスには必要だった。もちろん、父の言葉もあった。
「私がしっかりしなければ」責任感の強いアグネスは、裡(うち)の悲しみをおし隠し、気丈に振る舞った。母や弟の前では、涙を見せまいとした。それは悲壮感さえ漂わせ、21歳とはいえ、甘えん坊の女の子にとっては、いささか重すぎる荷であった。
その頃、アグネスに日本への招へいの話が合った。家族は行くことを勧めた。アグネスも、自分のためだけでなく、沈んだ母の気分転換のためにも、日本行を決めた。
1977年5月16日。アグネスは母、端淑を伴い、来日した。喪服を思わせる黒のドレスが、彼女の心の痛みを表していた。記者会見の席でも、話題が父に及ぶと涙を見せた。(記者会見中のアグネス。)
今回の来日では、6月17日までの約1か月間、昼夜2回のコンサートを3回、LPのレコーディング、多数のテレビ・ラジオ出演が予定されていた。(大阪のコンサート会場にて)
来日して一週間ほどたった頃、思わぬことが起こった。あたかも父のことを忘れたかのように、涙も見せず、忙しそうに仕事をこなすアグネスを見て、こともあろうに母がキレたのだ。
「アグネスは、お父さんのことを忘れたのか?」
母を思い、母のために来日し、母の悲しみを和らげるために、ことさら明るく振る舞おうとしている、アグネスの切ない思いは、母には通じていなかった。
ショックだった。
父への悲しみで、ともすれば押しつぶされそうになるアグネスを、辛うじて支えていた支えの一つが、折れた。
アグネスの心のバランスは崩れた。自分の感情が抑えきれなくなったのである。このような状況が一週間ほども続いたという。
しかし、来日日程も後半に入り、アグネスはようやく落ち着きを取り戻した。気がつくと、彼女の周囲には、彼女を暖かく見守り、励ますスタッフの、友達の、そしてファンの優しいまなざしがあった。「このお礼は、必ずしなければならない。」アグネスは、心の中でそう誓うのであった。
9月に入り、カナダに戻ったアグネスは、最終学年に入った。
アグネスは以前にもまして勉学に励んだ。父のことで、2月以降滞っていたこともある。しかしそこには、勉学に打ち込むことが、学問を身につけ、一個の女性として自立することを切望した亡き父に報いる、たった一つの方法である、との思いがあったに違いない。勉強し、立派な成績で卒業する。それが、アグネスにできる、父への唯一の手向けだった。
授業のシステムにも慣れ、また、勉強のコツを飲み込んだアグネスは、着実に成績を伸ばしていった。もともと実力があり、持ち前のガンバリズムをフルに発揮して、彼女は優秀な学生に成長していったのである。大学の廊下には、いつも成績表が張り出されていた。アグネスは、その中で2,3番の位置に名を連ねていたという。
一方、アグネスの卒業が近づくにつれて、日本側の動きも出てきた。はっきりしないが、恐らく1977年の暮から1978年のはじめ頃、所属していたプロダクションの渡辺プロから、カムバックのオファーがあった。
帝国とまでいわれた渡辺プロダクションは、往時の勢いをなくしつつあった。速いテンポで変化し続ける芸能界の潮流に乗り切れず、古い方式に固執した同プロダクションは、有望な新人獲得に苦慮していたのである。そのような状況のため、少しでも確実に稼げる人材を求めていたに違いない。
アグネス引退後も、彼女のファンクラブは活動を続けていた。1978年の時点でもまだ2,000人の会員を擁していたという。彼らは「必ず帰ってくる」との、アグネスの言葉を信じて待ち続けていたのである。プロダクションとしても、これを利用しない手はなかった。彼女のカムバックはプロダクションにとっても、待ちわびるファンにとっても、双方に利益をもたらすものとして期待されたのである。もっともその「利益」の内容はかなり異なってはいたが。
オファーを受けたアグネスは戸惑った。その時点まではカムバックのことは考えていなかったから、と彼女は著書に記している。アグネスは、日本のファンに対しては友達という感情を持ちながらも、自分の進路とは一線を画していたようである。しかし、このオファーは、彼女の心奥底に眠っていた(というより、押さえ込んでいた)音楽に対する情熱を、激しく揺さぶったのである。
1978年2月。日本のCM撮影クルーがカナダにやってきた。その時一緒に尾木氏もやって来た。尾木氏はアグネスが信頼を寄せていたマネージャの一人だった。アグネスは、カムバックの件について尾木氏に相談を持ちかけた。尾木氏はカムバックに賛成だという。
同年4月には、日本デビュー以前から付き合いのあった明星の編集員が、カナダにアグネスを訪ねてきた。彼もまた彼女のカムバックに賛成だった。彼は言った。この2年間、いろいろな歌手がデビューしたが、アグネスのような歌手は出てきていない、と。
アグネスは迷っていた。動揺していた、とも言えるかもしれない。アグネスは平静さを失い、自分が本当にやりたいことが、よく見えくなっていたようだった。
使い始めた羅針盤は、針がくるくる回るだけで、明確な方向を一向に示してくれなかったのだ。
お父さんだったらどういうだろう。アグネスは思う。しかし、お父さんに相談したいという欲求はつのるものの、無論、それは叶わぬことだった。自分で決めなければならなかった。
この頃、アグネスは、研究室の先生や友人の勧めもあり、大学院を受験している。卒業後の進路のオプションになり得たが、他人の薦めで受検したという事実自体、アグネスの迷いを示していた。
5月に入り、アグネスは大学院の合格通知を受け取った。しかも年間4,000ドルの奨学金付きである。日本と同様であれば、奨学金は、一握りの成績優秀者に与えられるのみである。アグネスが、いかに優秀な学生であったかの証明である。研究室の先生が、その才能を惜しんだのも無理からぬことであった。
この時点で、アグネスの進路は4つのオプションがあった。
・弁護士
・心理学博士(大学院)
・ショップのオーナー
・歌手
アグネスは決めかねていた。
卒業は目前だった。