アグネスのカムバックは、我々ファンにとって、長い間待ちわびた朗報だった。
アグネスのカナダでの生活は、当時の雑誌などでも時折紹介されていた。彼女が進路について迷っていることも伝えられていた。「必ず戻ってきてくれる」と信じていたファンも、さぞやきもきしたことだろう。
前章でも述べたとおり、アグネスは迷いに迷っていた。その結論として、カムバックの道を選んだのだが、それは彼女の心からの希望だったのだろうか。
というのも、カムバックについて後年、彼女自身が「あまり深く考えた結論ではなかった」という趣旨の発言をしているからである。進路決定というのは、人生のなかでも重大な局面のひとつである。あれほど聡明で理知的なアグネスが、そのことを意識しないわけはない。それにもかかわらず、ある種安易な気持ちでカムバックを選択させたものはなんだったのだろうか。言い換えれば彼女を惑わせ、平静さを失わせたものはなんだったのだろうか。少し考えてみたい。
ここで、前章で示した、当時の四つの選択肢についてもう一度見てみよう。
「弁護士」という選択肢は、香港にいた彼女の叔父の勧めだった。父燧棠の急逝後、彼女に勧めたらしい。「心理学者」という選択肢は、友達や先生の勧めだった。もちろん本人にもなにがしかの希望はあったに違いないが。
「ギフトショップ・オーナー」という選択肢については、どういう経緯かはっきりしないが、これも誰かほかの人の勧めだったと、筆者は考えている。そして「歌手」という選択肢。これも元所属プロの渡辺プロの勧めだ。
つまり、卒業時点で、アグネスが、その後の進路の「選択肢」として考えていたものは、すべて自分の本来の希望ではなかったのではないか、と思えるのである。自分本来の希望、それは若者や子供たちにコミットできる仕事、だったはずである。それはカウンセラーだったかもしれないし、小学校や幼稚園の先生であったかもしれない。少なくとも、留学以前の彼女はそう考えていた。その希望が、彼女の言う「オプション」から落ち去っていた。
アグネス本来の希望である、カウンセラーや学校の先生になることを、彼女の卒業時点で、彼女自身がすでに切り捨ててしまっていたようなのだ。それはなぜか。
陳燧棠の死後、親族会議が開かれ、アグネス一家のそれぞれのその後の行く末について、話し合いがあったろうことは、容易に想像できる。長兄や二人の姉については問題なかったが、母の端淑、アグネス、それに二人の弟が問題だった。一家には燧棠の残した蓄えがあったことにはあったが、もちろんそれだけでこれから暮らしていくことはできない。誰かが働かなければならなかった。
母、端淑は働いた経験がなかったか、経験があったとしてもわずかであったと思える。性格的にも仕事向きとは言い難かったようだ。二人の弟はまだ学生で、論外である。一家の生活は、アグネス一人にかかってくるのは明白だった。叔父が弁護士を勧めたのも、こういう事情ではないかと想像される。弁護士ならば、努力次第で将来、高収入が約束されるからである。それに比べ、カウンセラーや学校の先生はどうだったか。アグネスを含め、4人の家族を養っていく職業として、親族の賛同を得られなかったのではないか。そして、アグネス自身もその意見に賛成せざるを得なかったのではないか、と考えるのである。
渡辺プロからカムバックのオファーが来る以前では、彼女の「選択肢」は、いずれも未知の職業であり、この意味でそれぞれは同等の重みを持ったものだったに違いない。ただ、彼女を囲む環境まで考えれば、「弁護士」という選択が第一だったように見える。そこに突然、思いもしなかったカムバックのオファーが来るのである。
「歌手」という職業はアグネスにとって、当然なじみのあるものである。どういうものか十二分に分かっていた。「歌」という、彼女のもうひとつの夢も同時にかなえてくれる、魅力的なビジネスである。やっていく自信は、あった。しかし、唯一にして最大の問題は、彼女が再び受け入れられるか、であった。日本の芸能界については、ファンからの手紙や雑誌で、ある程度分かっていた。しかし、2年のブランクは小さくない。もし再デビューに失敗すれば・・・不安は拭えない。
アグネスがカムバックのオファーを受けたとき、彼女の脳裏によぎったのは、懐かしい「友達」の姿だったに違いない。楽しかったステージ、応援の掛け声、拍手、紙テープ。それに、何よりも、好きな歌を思いきり歌っている自分自身の姿・・・恐らく、辛かった毎日の出来事でさえ、「懐かしい思い出」となっていたであろう。
もう一度、歌でやっていけたら。アグネスは、自分がいかに歌に飢(かつ)えているかを実感したことだろう。しかし、彼女の親族は、彼女の芸能界復帰を快くは思わないだろう。「歌手」という職業は浮き沈みが激しく、安定した仕事とは見られなかったからである。そのため、彼女にとって「歌手」という選択肢は、親族や家族に対しても、自分自身に対しても冒険だったのである。だから悩み、迷い、尾木氏に相談し、永井氏に相談したのである。しかし、相談する時点で、彼女の心は急速に「歌手」の方向に傾いていったことは間違いない。
両者ともアグネスのカムバックには賛成だった。尾木氏は、彼女の音楽性を評価した上での発言であり、永井氏は、日本の芸能界の現況を見た上での発言だった。それぞれが間違っていたとは思わない。しかし、いくらアグネスの音楽性が高くとも、彼女の目指す方向が時代の要求に合わないとしたら、結果は分からなくなる。「アグネスのような歌手は出てきていない」のは、もしかするとこういうことなのではないか。
もし、アグネスが進路決定に慎重であったら、このような考えも持ったことだろう。しかし、そうではなかった。アグネスは、自分の進路を選択する、というより、むしろ、懐かしい家に帰りたい、という心境で「歌手」の道を選ぼうとしたのではないかと考えるのである。
では、すんなりとカムバックを受け入れられたかといえば、そうでもなかったようだ。
アグネスにカムバックを躊躇させるもうひとつの問題があったのである。それは、ほかならぬ渡辺プロ自身であった。
アグネスは、社長である渡辺夫妻個人には恩義を感じていたようだが、組織としての渡辺プロに対しては信頼してはいなかった。とくに制作部長だった松下治夫氏とは、以前から反りが合わなかったらしい。アグネスが引退宣言をし、その撤回を求めて父、燧棠に強硬に迫り、苦しめたのも松下氏だった。燧棠の葬儀に、渡辺美佐らは参列したものの、当の松下氏は顔を出さなかったため、彼女の感情的な反発を招いた、との話も伝わってきている。
そんな中で、アグネスが唯一信頼していたのが、尾木氏だった。だが、その尾木氏も、渡辺プロを退社し独立してしまった。アグネスにとって、尾木氏のいない渡辺プロは、安心して帰ることができる場所ではなかった。アグネスが、カムバックの条件として、尾木氏をスタッフの一人として、参画させることを強硬に主張したのは、無理からぬことであった。しかし、渡辺プロとしても、一度出て行った尾木氏をすぐさま呼び戻すことは、そうそうできる相談ではなかった。話はなかなかまとまらなかった。
しかし、5月に入って、アグネスが渡辺美佐から直接電話をもらった時点で、状況は変わった。その電話で、美佐はアグネスに、尾木氏のスタッフ参加を約束したのである。
その翌日、5月21日は、燧棠の死去によって延期されていた、姉アイリーンの結婚式だった。結婚式に参加するため、母親の端淑も香港からカナダにやってきた。彼女は端淑に相談した。もともと芸事に憧れを持っていた端淑は、アグネスのカムバックに賛成だった。
結婚式は滞りなく終了した。(姉の結婚式で)
アグネスは決断しなければならなかった。決断といっても、心は、ほとんど「歌手」に移っていたが、最後まで悩んだのは、大学院に進んで心理学を追求することをどうするかだった。一時はそれまでのように、大学院に通いながら、音楽活動を続けることまで考えたようだ。しかし、それは過去の轍を踏みかねないことだ。
アグネスは、カムバックに躊躇する自分に対して、「素直になれ」と自身を激励したと、著書の中で語っている。彼女の、歌手として再びやっていきたいという決意は本物であったろう。その一方で、心理学者として学問の追究を志したいという希望もまた本物であったに違いない。心理学という選択の先には、彼女本来の夢である、カウンセラーや学校の先生という道が開けていく可能性がある。しかし、それはあくまで可能性に過ぎない。同様に、職業として「歌手」の道を見た場合、引退以前のような成功と安定した収入が約束されているわけでも、もちろんなかった。要するに、いずれの道を選択しても、その将来は決して展望が開けているわけではなかったのである。これは、そのほかの「選択肢」についても言えることである。これらは、さらに未知の未来という不安もあり、この時期になっては、もはや選択する意欲が失せていたものと見られる。
「歌」か「心理学」か。アグネスには決心の決め手を欠いていた。時間は刻々と過ぎ、奇妙なことに、彼女は迷いの袋小路に追い詰められていったのである。そのふんぎりをつけさせたのは、ファンからの手紙だったという
。
先のことは分からない。だから、そのことに今思い煩ってみてもしかたがないことである。いまは、いまの自分の想いに「素直」になるときだ。今、自分は何がしたいのだ? アグネスは、一体何がしたいのだ? 彼女はそう自問する。そして彼女は答えを見いだすのである。
「友達」のところに帰ろう。母もそれを望んでいる。私も、もう一度歌を歌いたい。みんなが幸せになる選択をしよう。
結局、アグネスは、自分のこととしての将来を決めきれず、いわば情にほだされる形で、「歌手」の道を選んだのだ、といえば、それは言いすぎであろうか。
ともあれ、アグネスの心は決まった。だが、その決定が、感情に流されたわけではない、と断言するには、いささか疑問が残るのである。
1978年6月15日。アグネスは卒業式を迎えた。取得学位は「Bachelor of Science」(理学士)であった。式には、日本のテレビクルーが撮影に来ていて、式の進行係が「我々はアグネス・チャンを大変誇りに思います。彼女は日本で有名な歌手であり、抜群の成績でこの大学を卒業しました」とアナウンスした。アグネスの友達は驚くものも、「騙された」と怒り出すものもいた。「私のカナダの友達は、1週間、私と口を利こうとはしませんでした。私が誰にも過去を知られたくなかったわけを、彼女に理解させることはできませんでした。」あるインタビューで、彼女はそう語った。
こうして、アグネス版「ローマの休日」は、そのエンディングを迎えたのである。(卒業式にて。母、弟たちと)
1ヶ月後の7月10日から、トロントのスタジオで新曲のレコーディングがはじまった。これとは別に、このころ、カナダのレコード会社から契約の申し出があった。しかし、長い目で見れば、それは危険過ぎるという理由で、彼女はその話を断った。
レコーディングを終え、アグネスは7月22日夜、香港に戻った。翌日、ハッピーバレーの天主教墓地に父の墓参をし、無事卒業したこと、歌手としてカムバックすることを報告した。
そして、8月14日午後0時45分、成田着のインド航空機で日本に帰ってきたのである。
来日の記者会見は、午後3時半から、新橋にあるヤクルト本社6階で、約100人の報道陣を前にして、30分間行なわれた。
どうも、こんにちは。えー、久しぶりです。やっぱり、なんか最初(に言いたいこと)は、あの、みなさんのおかげで、私は6月でトロント大学を卒業しました。ほんとにみんなのおかげと思っています。どうもありがとうございました。そして、あの、歌の道をもう一度選んだのは、やっぱり、いろいろ迷って、そしてみんなのアドバイスなんか聞いて、感謝の気持ちと、そしてファンの人との約束を守るために、帰ってきたんです。そして、今度は、あの、歌と勉強両方ではなく、えと、歌だけで、一所懸命頑張りたいと思います。
さて、ここからは、第9章と同様にアグネス自身に語っていただこう。以下は、8月15日、当時のテレビ番組「アフターヌーンショー」(テレビ朝日)で放送された、この記者会見の模様で、斜体で書かれた部分が、彼女自身の言葉である。実質5分強の放送のため、当然会見のすべてではない。会話調は一部筆記調に修正し、明らかな言い間違い以外は、なるべく忠実な記述を心掛けた。文中の( )内は、理解を助けるため筆者が附したもので、放送された番組にはなかったものであることを、お断りしておく。
――カナダにいらっしゃる頃は、東京からファンレターいっぱい来ましたか
ええ、あの、みんなね、すごい、あの、いろいろ送ってくれるのです。レターのほかにね。レターはどのくらいかな、一週間にだいたい200くらい。
――カナダでの生活はどうでした。楽しかったですか。
すごく楽しかったです。
――たとえば、とっても思い出に残ってることなんてありますか。
そうですね、やっぱり、あの、たくさんお友達ができたっていうのことね。そして、あの、ひとり生活なんかしてて、あの、とくにだれも私のこと知らないから、えと、街に歩いても誰も、ね、あの、声なんかかけないし、そして、ホットパンツはいてあちこち行けるし、すごく楽しかったんです。
――ボーイフレンドはできましたか。
お友達はたくさんいる。恋人はいません。
――でもカナダの時、あれでしょ、ご自分で車運転してナイアガラにボーイフレンドと旅行したというような話も日本に伝わってきてたし・・・
私、運転してボーイフレンド連れていかなかったよ。お友達なんかみんなと一緒で。みんな私の車乗ってくれないんです。私運転してるのが危ない運転だからから。ほとんどほかの人運転して私乗ってるときのほうが多いんです。でも、あの、お友達はいます。あの、女の子もいるし、男の子もいる。
――それから、やっぱりもう一回戻ったわけだけれど、弁護士さんになるとかね、カナダとか香港でギフトショップやるとかね、いろいろ話が伝わってきてたんですけれど、ご当人としては学生生活の時にはね、どうしようというふうに・・・。やっぱり弁護士さんなんか考えたんですか。
考えました。そして、あの、弁護士になるか、ギフトショップ開くか、歌を歌うか、それと続けて心理学を勉強するかっていうの、いろいろ、あの、オプションが出てきたんだけど。で、最後的にはやっぱり、あの、一番はみんな喜んでもらえるような道を選びたいから、えと、弁護士になる自信が、あの、みんなからいろいろアドバイス聞いてから、少しなくなったし。そして、あの、もっと年とってからやれると思うしね。
――お父さんが亡くなられて、もう自分が仕事をしなければ、その、金銭的に(苦しい)というようなね、見方もあるんですけれど・・・。特にそういうことじゃないんですか。
じゃないんですね。たくさんお金いらないの。うん、あの、うちは、たくさん人いないしね、いま。ただ弟二人とお母さんだしさ。ほかの(兄姉たちは)もう結婚したり、自分の仕事持ったりしてるから。
――ところで、新曲はいつごろから向こうで練習されてたんですか。
えとね、レコーディングの2か月まえぐらい。で、すごく難しかったの。とくに「アゲイン」が。今までの曲と違って、あの、メロディックでしょ、そしてすごい日本的なメロディーだから、あの、すごい時間かかって、練習して、3回レコーディングしたんです。
――最後にアグネスに聞きたいんでけれど、お母さんと今日ご一緒に来ましたね。お母さんはカムバックについて、どういうお考えですか。
すごい、あの、ノってる。
この後、同社2階にあるヤクルトホールでファンの集いに出、新曲を含め、5曲を歌った。この日集まったファンは、北海道から九州まで、約600人。徹夜組が25人、名古屋のファンは貸し切りバスを仕立てての参加だった。同日夜10時には「夜のヒットスタジオ」(生)に出演、過密スケジュールがはじまった。また、復帰記念コンサートは同月31日、武道館を皮切りに全国10都市で行なわれた。
なお、今回の渡辺プロとの契約金額は6万ドル(約1200万円)。前回契約と同じだったという。
また、ワーナーパイオニアとの契約は半年(通常1年)で、次の曲は未定だった。実は、渡辺プロは、長年資本参加していたワーナーパイオニアを離脱し、トリオ、西部とともに新会社サウンドマーケティングシステム(SMS)を、この9月にも設立しようとしていた。資本金は3億。社長に渡辺晋、監査役に渡辺美佐という、完全に渡辺プロのレコード会社である。これで渡辺プロのレコード会社は、昭和31年に設立したアポロン音楽産業(社長:渡辺美佐)とあわせて2社になった。
渡辺プロは、新レーベルには小柳ルミ子とアグネスを移籍させるつもりでいた。しかし、この移籍に関しては、アグネスには事前に知らされていなかったようである。
なにはともあれ、いよいよ、第2幕が切って落とされたのである。