誕生前夜


 アグネスのご両親は、当然のごとく序章で述べた中国世界に誕生している。彼女を含め、我々の世代の親はみんな激動の時代を経験している。その時代がどんな時代であれ、彼らはそこに生まれ、そこに育ち、しぶとく生き抜いて我々をこの世に送り出してくれた。この意味で、感謝、である。
 アグネスも同様だろう。またアグネスのご両親がアグネスを誕生させてくれたおかげで、我々は幸せのひとつを手にすることができたのである。
 では、アグネスのご両親はどのような人だったか。資料は少ないが、知りうる範囲で眺めてみよう。

 アグネスの父君・陳燧棠のルーツは香港の北、広東省東莞だ。彼の父親、つまりアグネスのおじいさんが広東人で、商売のため香港に来ていた。生業は臘味店(腸詰め屋)だった。陳燧棠は彼の三男として1920年(?)に、香港で生まれた。
 香港で中学・高校と進むが、なかなか優秀な生徒だったらしい。中学は有名なキングスカレッジ(King's College/英皇書院、Collegeには中学の意味もある)であり、彼はそこの第1回の卒業生という。
 King's Collegeは1926年に開校したが、その前身はSaiyingpun(西営盤)Anglo-Chinese Schoolといい、創立は1879年までさかのぼる由緒ある学校である。彼はここで英語の素養を身につけた。
 その後、大陸へわたった。高校を卒業してからだと1938年以降で、そうすると日中戦争はすでに始まっていて、蒋介石の抗日国民政府が南京から重慶に遷都した後のころである。
 さて、彼が毛沢東の遵義会議で有名な貴州の遵義に行ったとき、ひとりの若い貴州娘に出会う。
 彭端淑である。

 彭端淑は、現在の貴州貴定県沿山鎮において、1926年11月25日に生まれた。父親は役人で、大変立派な家だったそうだ。彼女はその5番目の子どもになる。一人娘だったそうだ。
 彼女も小学校のころ成績優秀で、貴州の都・貴陽の中学に進学している。
 卒業後、遵義の看護学校に進んだ。そこで陳燧棠と出会うのである。
 そのころは単なる友達関係だった。ところが、その後貴陽の街でばったりと再会した。

 そして二人は恋に落ちた。

 陳燧棠は重慶に移り、そこで入国管理官を勤めた。日中戦争も後半に入り、重慶の地も騒然としていたものと思われる。その地へ、彭端淑は恋人・陳燧棠を追ってやってくる。まったく、恋する娘はいつの時代でも強いものである。

 ところで、序章で述べたが、そのころ日本陸軍には重慶攻撃の作戦計画があって、準備段階まで行った。南方戦線が怪しくなって結局作戦は中止されたが、もし実施されたら二人の運命はどうなっていただろう? ちょっとスリルがある。
 それはさておき、1945年日中戦争は終結し、翌1946年春、二人は重慶で結婚した。夫26才、妻20才であった。
 ここで、アグネスの1984年の著書では、彼らの結婚の地については香港だったとある。しかし、1985年の著書では、香港に来る前に結婚していたととれる記述がある。上の記述は1978年のインタビュー記事がもとになっているが、どうも1984年の著書の記述はアグネスの勘違いのようである。

 陳燧棠は、日本軍の占領から解放された香港にいったん戻るが、請われて再び本土に戻る。1951年ごろのことと思われ、すでに長兄の柏齢、長姉の依齢は誕生していた。やがて端淑も彼の後を追った。蒋介石は1949年、すでに大陸を逐われ、本土には共産中国が誕生していた。
 共産党の支配下にある本土で、二人は苦労したらしい。陳燧棠は国民党だったが、共産党のドクトリンには理解があった。しかし、毛沢東のやり方には反対だったそうである。陳燧棠は結局共産党員にはならなかった。

 1954年の頃、二人は最終的に本土を脱出し香港に逃れた。この時、次姉・曦齢を連れていたはずで、幼な子を連れての逃避行はさぞ苦労されたものと思われる。

 香港に到着した陳燧棠は、郵便局に職を得て、相当の地位まで登り、その後湯沸器などの家庭用品を扱う貿易商に転身する。

 香港でのふたりの生活は、陳燧棠の両親と兄弟が一緒に住む大家族だった。当時の香港としては珍しくない。香港を含め、華南地方は道教(儒教)の影響が強く、親子や親戚どうしの絆を大切にする風潮がある。また宗族を中心とした父系血縁主義の傾向が強い。女性の地位は低く、たとえ嫁に来ても、男子を産まない限りその家族の一員として安定した地位は約束されなかったという。
 陳燧棠の両親もその例に漏れず、彭端淑に男の子を期待した。

 第一子は男の子(柏齢)だったが、生後1か月で心臓マヒで死亡した女の子をはさみ、そのあと第二子(依齢)、第三子(曦齢)と女の子が続いた。
 第四子(美齢)を身ごもったときは、端淑の不安をよそに、今度こそという期待が大きかったが、見事に裏切られた。
両親の落胆は大きく、怒ったおばあさんは陳燧棠に2号さんをとる話まで持ち出したそうだ。もっとも、これも当時の香港では珍しい話ではない。清朝以来の風習で、男子が生まれない場合は、裕福な家であれば妾、ないしは第二の妻を取ることが一般的だったらしい。植民地政府は、中国系住民に対しては中国の風俗・習慣を尊重するという立場から、そうした現実を放任する傾向にあった。法的拘束力をもつ形で一夫一婦制が確立したのは、なんと1971年の婚姻改革条例からという。それまでも重婚を禁止する婚姻法はあるにはあったが守られなかったらしい。
 美齢の「美」は中国語では mei という音になり、音的に「尾」(wei)に通ずる。「尾」には端、最後の意味があり、女の子はこれで最後にしたいという意味があったそうだ。
 幸いなことに第五子(康齢)、第六子(宇齢)と男の子が生まれた。陳燧棠の2号さんの話はどうやらなくなったようだ。彭端淑もほっとしたことだろう。

 彭端淑は香港に来た当初、広東語が話せなかった。大家族の中で、苦労したのではないだろうか。当然お姑さんとのコミュニケーションもなかった。日本風な嫁姑の関係が香港にもあったかどうかは定かではないが、気苦労は絶えなかったと思われる。
 その中で頼れるのは唯一陳燧棠であったことは容易に想像される。二人の愛情の深さはアグネスもうらやむほどだった。
 風習がどうであれ、親として彼らは子供たちを一心に愛した。子供たちもそれに報い、それぞれ立派に成長した。親として、至福の喜びである。
 そのさなか、陳燧棠は病に倒れた。

 1977年、陳燧棠は患っていた胆石の手術を受けることになった。アグネスの著作から、2月の下旬ごろと思われる。
 手術には危険性はないと思われた。
 だが、手術後原因不明の出血が起きたようだ。急遽2度目の手術を執行することになり、同時に、当時カナダに留学していたアグネスが呼び戻された。
 アグネスが病室に現れたのを見て、陳燧棠は不覚にも涙を流した。最も会いたかった、いとおしい末娘、美齢。21にもなって落ち着かず、ステディもいない美齢が、陳燧棠には心残りだった。「お前の花嫁姿が見たい。お前にいい人を見つけてあげたい」苦しい息の下から、陳燧棠はアグネスにそう言ったという。
 出血の原因を探すため、3度目の手術が行われた。しかし、原因は特定できず、いたずらに陳燧棠の体力を奪っただけだった。この頃から胆のうだけでなく、腎臓にも障害がでてきていた。状況は危機的になりつつあった。
 4度目の手術後はもとの病室には戻らず、集中治療室に収容された。家族は中には入れない。窓から見るだけだ。家族は家にも戻らず、病院でひたすら祈る毎日だったという。
 一時は快方に向かったかに見えた。だが3月24日、家族の必死の祈りもむなしく、陳燧棠は意識不明のままこの世を去った。
 57才の若さであった。
 奇しくもこの日は、陳燧棠と端淑の31回目の結婚記念日だった。


 陳燧棠は香港のハッピー・バレー天主教墓地に埋葬された。アグネスは、このあと中国の慣習に従い、3年間の喪に服する。

 彼の死で最もショックを受けたのが、妻彭端淑だった。一時はかなり気落ちしていたが、やがて回復した。

 なお、彼女は1985年、カナダ国籍を取得している。香港の中国返還を前にした香港人の、一般的な行動である。




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