ところで、美齢の両親、とくに父の陳燧棠は美齢の芸能界入りには大反対だった。実業家の彼にとってみれば、歌手などという仕事は、浮き沈みが激しく、一生続けるに値しない低俗な仕事だった。彼は、女性でも勉学に努め、立派な成績を挙げなければならないと考えていたそうである。アイリーンは芸能界に入って学校を辞めたが、彼はそのことに激怒していた。
アグネスの人気には、しかし、代償もあった。学校の友人が離れていったのである。「美齢は名声に酔っている」友人たちはそういって美齢と絶交した。つばを吐きかけられるようないじめにもあったらしい。美齢自身はショックを受け、憤慨し、悩んだ。なにも変わっていない、彼女は自分ではそう思っていた。一方、あれだけ打ち込んでいたボランティア活動も、仕事が忙しくなるにつれ急速に遠のいていった。
アグネスは日本デビューを果たす前、2曲いりシングルを3枚、4曲いりシングルを3枚、それにLPを2枚香港で出しているようだ。LPについては第15章で紹介している。
さて、最後にアグネスの18才目前の「女の子」としてのエピソードを一つ。このエピソードは正確にはアグネスが日本デビューを果たした直後の1973年夏、香港にはじめて里帰りした頃のものである。
1970年、美齢が15才のときである。
美齢のアマチュア・フォークシンガーとしての活躍はテレビのディレクターの目にとまることになり、そのころすでに映画スターとして香港で人気を博していた姉アイリーンの妹として、美齢はテレビ出演し歌を歌った。
視聴者の反響はすごく、再出演を望む投書が殺到した。そしてもう一人美齢に目をとめた人物がいた。
そのころライフ・レコード(楽風唱片公司)ではアマチュア・フォークシンガー12人をフィーチャしたLPの制作を行っていた。そのうち11人はすでに決まっていたが、残りの一人が決まっていなかった。
このレコードでギターを弾いていたのがジョン・チェンという男で、彼は美齢たちフォークソングクラブのメンバーにギターの手ほどきもしていた。
彼の従兄の勧めで、美齢は彼に歌を披露した。彼はそれを気に入り、かのレコードの制作プロデューサに美齢を紹介した。
美齢は渡された曲のなかから、ジョニ・ミッチェルの「Circle Game」を吹き込んだ。
美齢は学業をおろそかにしないことを約束して、両親の許可を得た。実際は、プロ歌手になってからの方が成績がよかったというから、たいしたものである。
さて、1年ほどたった1971年の1月、先のLPから美齢の「Circle Game」がシングルカットされた。歌手アグネス・チャンの誕生である。
曲はヒットした。
当時、香港のFMラジオは香港電台と商業電台の2局があり、それぞれ広東語と英語の各チャンネルを持っていた。「Circle Game」はその4つのチャンネルのチャートで1位になった。香港史上初の快挙だった。アグネスは香港ヒットチャートに登場した最年少歌手になった。
レコードは18,000枚売れたという。これが当時の香港で多いのか少ないのかはよく分からない。当時の香港は海賊盤が幅を利かせていたからである。なにせ、アグネスが契約したライフ・レコードにしても、自社の作品の海賊盤を作っていたと言われるほどだ。
その年の春、日本デビューを果たしたアイリーンが由紀さおりの「生きがい」を持ち帰った。アグネスはそれを英語でカバーし「Sweet Dreams」として歌った。これもまたヒットし、アグネスは”香港のクイーン”と呼ばれるほどのスターになった。[香港のTV番組で]
アグネスはTVBの「スター・ショウ」や「歓楽今宵」という番組に出演していたが、その後RTVと契約、「美齢晩会」(アグネス・チャン・ショー)というレギュラー番組を担当することになった。アグネスはデビュー4か月にして自分のテレビ番組を持つことになったのである。
この番組は週1回8時から30分の番組で、内容は、アグネスが地元の学校めぐりをして有能な生徒やボランティアグループ、さまざまな話題の人にインタビューするのが中心で、番組のはじまりとおわりに新しい歌を弾き語りするというものだった。番組は2年間続いた。
その年のクリスマス、「美齢晩会」の特別番組にアグネスをはじめ、アイリーン、ヘレンがそろって出演した。これが大反響を呼び、”チャン・シスターズ”は香港じゅうの評判になった。しかし、ヘレンだけは芸能界に入らなかった。香港随一の大学、香港大学の医学部に進学して、現在は小児科医である。[チャン・シスターズ]
この年、アグネスは、権威あるベスト・アジア・シンガー賞を受賞し、同時に「香港10大スター」の一人に選ばれている。
どこにでもいる普通の女子高生、陳美齢は、今や押しも押されぬ大スター、アグネス・チャンになった。アグネスは香港だけでなく、東南アジア一帯で人気を博した。
そういった当人の思惑とはまったく別に、スター「アグネス・チャン」はどんどんひとり歩きしていった。次々とレコードを出すかたわら、映画出演も果たした。大手の映画会社ショー・ブラザーズと契約し、1972年3月、「年軽人」に初出演した。そしてその年の6月には「愛」、9月には「叛逆」に立て続けに出演している。
ティーン・エイジ・ロマンス映画と呼ばれるこれらの映画では、ショー・ブラザーズは役者としてのアグネスを求めはしなかった。彼女が出るだけで映画はヒットするだろうと考えたのである。事実そのとおりになった。セリフがマンダリン(北京語)だったため、覚えるのに苦労したと、後にアグネスは語っている。
なお、「叛逆」では、主題歌2曲の作詞、作曲もしている。「Original(1)」と、「You are 21, I am 16」である。
また、香港スタンダード誌(新聞)にはアグネスのページができ、そこでコラムや詞やイラストを連載した。もっとも、これは本職の手が入っていたようだ。またアグネス自身も、そこではアメリカやイギリス、日本のヒットチャートのリストで行数を稼いでいたと、言っている。
この異常なまでの人気の渦中、アグネス自身はどう考えていたかというと、「振り返ってみれば、私はティーン・エイジのアイドルだったことが理解できます。しかし、そのときは自分がしていることが分かりませんでした。私が分かっていたのは、自分のスケジュールを守らなければならないということだけだったのです」
この状況は考えてみれば、日本デビューしたときとそんなに違いはないように見える。もし違うとすれば、香港時代では、コミュニケーションに問題がなかったこと、プロモートは自分でやっていたため、いくら忙しくてもするべき内容がちゃんと自分で把握できていたことだろう。しかしこのことこそは、アグネスが日本にデビューするや、彼女に深刻な影響を及ぼすことになるのである。
前章でも述べたが、このころはプロダクションシステムはまだ香港にはなかった。したがって、プロモートやマネジメントはすべてアグネス自身が行わなければならなかったのである。アグネスは未成年だったので、実際は両親や姉が行っていたようだ。
この年1972年、アグネスは2年連続でベスト・アジア・シンガー賞を受賞し、同時に「香港10大スター」の一人にも連続で選ばれている。この年の「香港10大スター」には彼女の他「燃えよドラゴン」を世界的にヒットさせたブルース・リーと、日本にもなじみの深い麗君(テレサ・テン)が選ばれている。
台湾出身の歌手麗君は、美齢と同世代であり、東南アジアではポップス歌手として絶大な人気を誇っていた。美齢と麗君はカラーがかなり違うが、比較するとなかなか興味深いものがある。麗君について興味のある方はこちらを参照されたい。
アグネスは香港で撮った映画「叛逆」の宣伝でタイに招待された。当時タイでは香港映画が人気を博していた。アグネスの人気もすごいものがあった。そのタイの王妃が彼女に会いたいと言ってきた。そこで、王妃に会う前に、拝謁の作法などを習うために、王子(ユカラ殿下)にまずあっていろいろ話を聞くことになった。
そのとき会った40才ぐらいの王子に、アグネスは「とても素敵であこがれた」そうである。
このエピソードは日本でも紹介され、あるテレビ番組が初恋の人として、この王子を日本に呼んだことがある。
その後アグネスは王子から手紙をもらったそうである。しかしアグネスは返事は書かなかった。本当に恋に落ちそうで怖かったから、と本人は言っている。
王子はアグネスのために曲を書いていた。もっとも、その曲がアグネスに届けられることはなかった、