アグネス誕生


 1955年8月20日、中華人民共和国・広東省・香港(英領)。


 贊育病院。陳燧棠の第四子にあたる女の子が生まれた。美齢と命名された。女の子であったがゆえに、周囲を少々がっかりさせた出生だった(第1章参照)。未熟児気味の小さい子だったという。愛称は「美美」となった。


 しかし成長は早く、1年4か月で片言をしゃべりはじめ、1年半も経つともう一人前に話しができた。活発で好奇心が旺盛な元気のよい子だった。[1才の頃
 2才の頃、美齢は、キリスト教(カトリック)の洗礼を受ける。教会ははっきりしないが、子供の頃よく通ったという聖瑪加烈聖堂と思われる。洗礼名は、「アグネス」である。香港では別にクリスチャンでなくても、中国名の他に英語名を持っている。イギリスの影響で、とくに学校に行くとき英語名を持つことを要求されるそうである。美齢の他の兄弟もポール/柏齢、アイリーン/依齢、ヘレン/曦齢、エイブラハム/康齢、ジョセフ/宇齢と、みんな英語名を持っている。ちなみに父親はヘンリーで、母親はリタである。


 3才の頃、美齢の家は父親の兄と妹の3世帯同居だった。子供だけでも11人いたというから、さぞかしにぎやかな家だったろう。その中で一番のやんちゃ娘は美齢だった。
 あるとき、冷蔵庫がわりに使っていた大きな水がめに頭から落ちて危うく死にそうになったことがあった。水がめの水面に揺らぐ自分の顔がおもしろくて夢中になっていたからとも、中にあったスイカを取ろうとしたともいわれている。たまたま従姉がそばにいて美齢の母親に「水の上に靴が浮いてるよ」と知らせてくれたおかげで、九死に一生を得たのである。外で遊ぶより家に中で遊ぶ方が多かったという。[3才の頃


 4才になって聖安當幼稚園というミッション系の幼稚園に入園した。行き帰りは従兄と一緒だった。小さいため家の呼び鈴に手が届かなかったからだそうだ。いちど従兄とけんかしてひとりで帰ったとき、呼び鈴が押せず家には入れなかったというのは有名なエピソードである。
 成績は優秀で一等生(優等生)だった。聖歌隊の指揮を任されたり、卒園時には代表でスピーチも行なったという。聖歌隊では賛美歌を歌い、美齢の歌とのかかわりはこのころから始まった。
 幼稚園にはいってやんちゃぶりにも磨きがかかり、先頭切っていたずらばかりしていた。友達に突き飛ばされた仕返しにその子をつきとばしたというエピソードもある。この時は先生に大変しかられたそうだ。そのため以後「仕返しをしない」というのが彼女の信条になった。
 とにかく、幼稚園の頃から頑固で、負けん気も人一倍だったようだ。

 6才。美齢は名門女学校マリノール・シスターズ・スクール(現マリモント中学)の初等科に入学した。カトリック系のミッションスクールで、12年制である。東京でいえばさしずめ聖心にあたるという。


 小学生になっても美齢は相変わらず背が小さく、席が一番前で先生によく当てられたりした。目立つため遅刻もできなかったという。[7才の頃


 小学校時代はあまり勉強せずに遊んでばかりだった。4年生の時、友達と海へ泳ぎに行って脚がけいれんを起こし、危うくおぼれそうになったこともあったそうだ。家族と一緒によく泳ぎに行ったこともあり、美齢は水泳は得意で、後にカナダ留学した際もよくプールを利用したということである。
 友達よりもきょうだい、それも弟たちと遊ぶことが多かった。いじめられて泣いてばかりで、なかなか泣きやまない”泣き虫がんこ”だったという。兄や姉たちからは相手にされず、かまってもらおうとすると、よく叱られた。それを父親に言いつけるとそれでまた怒られる、といった具合だったそうだ。けんかもかなり派手で、姉からハンガーでぶたれたこともあったという。それでも謝らなかったというから、美齢の頑固さは徹底している。


 それでも相手をしてもらいたいという気持ちは強く、頑張っていい子になろうと努力したらしい。彼女の人生を貫く”ガンバリズム”は、案外この辺りから芽生えたのかもしれない。「真ん中っ子はかわいそう」子供時代を振り返って彼女はそう語る。
 一方、恥ずかしがり屋で人と話すのが苦手な面もあり、友達作りがうまくなかった。そのためか、初恋に関するうわさも伝わってきていない。強いて挙げれば、5年生の時、姉・依齢の友人の男性に淡い片思いをしたということ程度である。[10才の頃


 小学校時代の成績は、1,2年生の頃は5番以内の好成績だったが、3,4年生になると中くらいまで下がった。しかし、6年生の時の担任が美齢をかわいがったので、それに報いるために頑張ってトップクラスになった。このころは小学校の先生にあこがれたという。

 

 中学(7年生~)に進むと、バスケットボールをはじめる。背が高くなりたいためだったが、敏捷なところを買われて、ディフェンスとして見事レギュラー入りを果たした。また足が速かったことからリレー・チームにも入っていたという。なかなかのスポーツ・ガールだったようだが、その後それを生かす機会に恵まれず、今は「だめね」ということである。


 中学に入っても美齢は優秀な学生だった。中1のときIQテストが行なわれ、4人しかもらえなかった賞状を美齢はもらったのである。しかし中学時代美齢は「すごい反抗期」だった。
 なにかにつけて反発していた美齢を180度変えさせ、その後の彼女の人生を決定づけたのが、ボランティア活動への参加である。


 ミッション系の学校のため、授業でもキリストの教えについて習っていた。しかし、ボランティアへの取り組みはキリストの教えを頭ではなく、体で覚えさせてくれたと、彼女は著書の中で語っている。

 美齢はYCS(Young Christians Student)のリーダとして、毎週土曜日の午後と日曜日、小さな子供のいるところや、末期ガンの患者を収容する病院、親のいない子供の施設、精薄施設などを訪問し、慰めたり、聖書を読んだりすることに携わった。また貧乏な子供たち相手に日曜日だけ英語や算数を教えていた。高校(10年生~)になると活動の場は、女性だけの刑務所や、15才くらいで妊娠してしまった女の子を出産まで面倒を見る施設にまで及んだ。これらの活動を通じて、美齢は自分も人のためにできることがあるという確信を抱き、「無償の愛」のすばらしさと大切さを文字どおり実感したという。反面、自分の力ではどうしようもない、厳しい現実があることもまた知ることになり、自分の無力さに腹を立て、逆になんとかしてやりたいという思いに駆られたのである。

 ところで、上でも書いたように、元来恥ずかしがり屋で人前で話すことが苦手だったことから、最初は子供たちにばかにされて役に立たなかったそうだ。美齢が物語を話して聞かせていてもすぐ飽きてしまい、騒ぎ出す始末。そこで美齢は歌を歌うことにした。歌は子供たちに通じた。それ以後美齢は歌をせがまれ、彼女は歌い、また子供たちに歌を教えた。これによって歌のもつパワーを知ることになった。


 ボランティア活動は、4年間続いた。その後美齢は歌手としてデビューし、次第にYCSの活動から遠ざかることになる。しかし、ボランティアに対する情熱はその後決して消えることはなかった。

 歌といえば、美齢は学校の合唱団に所属していたが、中二のとき、ロザリーというシスターが先生としてアメリカから赴任してきた。ブルーの瞳に金髪の美しい女性だったという。彼女が学校のフォークコンサートで歌うのを聴いた美齢は、そのすばらしさに感激した。翌日、シスターロザリーがフォーク・ソング・クラブの顧問をしていることを知ると、もう一度歌を聴きたさに入部を申し出た。テストの意味もあって、シスターの前で歌った歌は「A Place in the Sun」だった。結果は「合格」だった。入部した美齢はさまざまな歌を歌うようになると共に、ギターの音色に惹かれはじめた。その年のクリスマス、姉のアイリーンからギターをもらい、独学だったが、本腰でレッスンをはじめた。

 このころ美齢は洋楽に興味を持って聴いていた。エルビス・プレスリー、ビートルズ、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズをはじめ、エバリー・ブラザーズ、ピーター&ゴードン、リック・ネルソン、ポール・アンカ、クリフ・リチャードといったところだ。ちなみに、カム・バックしたころは、カーリー・サイモン、ジョニ・ミッチェル、メラニー、ジェームズ・テイラー、ロッド・スチュアートあたりが好みだといっている。

 中三のとき、シスターの勧めでコンサートで初めてソロで歌った。歌はやはり「A Place in the Sun」だった。これは「Come Lord Jesus」だったかもしれない。この頃、美齢は親に頼んで自分のギターを手に入れている。このギターは彼女の宝物のひとつになった。[14才の頃


 歌は観客に受け入れられた。アンコールの声がなかなか消えなかった。「通じた。私の思いが通じた」美齢は確かな手ごたえを感じた。この体験を通じて、美齢は、歌は自分に与えられたコミュニケーションの道具であり、自分はそれを駆使して愛を伝えるメッセンジャーだと考えるようになった。「歌はメッセージを伝える道具」「歌によるコミュニケーション」歌に対するこの姿勢は、その後の美齢の基本スタンスになった。


 その後学校のパーティーやフォーク・コンサートで弾き語りをやるようになった。やがて美齢のうわさは校外にも広まり、他校のパーティーにもゲスト出演するようになった。アマチュア・フォーク・シンガー陳美齢の誕生である。もっともこのころのレパートリーは2曲だった。[男子校のパーティーにゲスト出演

 そして、ついにプロの目にとまることになるのである。

 学生としての本分も美齢は忘れなかった。最終学年(12年生)には120人中2番という成績を修めている。また全香港統一テストでも抜群の成績をとった。なお、得意科目は英文学、地理、歴史、不得意科目は数学だったという。





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