中国現代史概要
歴史の時計をわずか150年ばかり戻してみたい。たった150年だが、現代とは全く異なった世界がそこにひろがる。
19世紀中葉、世界には帝国主義の嵐が吹き荒れていた。欧米の列強は、競って世界を分割し、植民地にした。最後に残ったのは極東アジア、つまり中国と日本である。
ご存じのように、当時の中国は清と呼ばれる帝国だった。1616年の建国以来、実に300年近く続いた歴史のある国だ。しかし、このころは国家統制は乱れ、ばらばらになりかかっていた。こういう情勢のもとでは、列強の近代的な軍事力の前には抗すべくもなかった。開国を迫られ、次々と権益を押さえられて、事実上植民地と化していた。
清国を狙ったのは、英国をはじめ、フランス、ロシア、ドイツ、アメリカなどの欧米列強だった。
英国ははじめ広東州のすぐ南、香港を拠点として清国と交易を行っていたが、お茶や絹、陶器など、そのバランスは完全に英国の輸入過多だった。英国の銀がどんどん清国に流出するのをみて、英国はあろうことか、インド産のアヘンの密輸出によって貿易赤字の解消を企てた。激怒した清国は大量のアヘンを没収して海に投棄した。これに対して英国は報復に出た。アヘン戦争である。清国は英国に屈し、香港島を割譲させられた。その後九竜半島南端部がさらに割譲させられ、1898年には九竜半島の大部分が租借されてしまった。
アヘン戦争については英国国内でも反対があった。当時保守党であったグラッドストンは、「――その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、読んだこともない」といっている。また同じく保守党のグラハムは、「このような不義の戦争には、たとえ勝ってもいかなる栄光もえられない」と非難した。
アヘン戦争は、中国近代化への苦難の始まりであり、香港の悲劇の始まりでもあった。
話は飛ぶが、1997年香港は英国から中国に返還された。しかし、上記のように、英国が借りていたのは九龍半島だけだ。香港島は、正式には清国から譲り受けたのであって、本来返す必要はなかった。しかし、中国は一括返還を主張し、それが通ったのである。
清国の北方は、大国ロシアが脅かしていた。ロシアもまた、強大な軍事力を背景に、1903年には満州占領している。
このような状況に清国は激しく抵抗し、平英団、太平天国は対抗したが、三国干渉を受けるなどして、列強による中国分割は深まる一方だった。世紀の変わり目には義和団運動が反帝愛国の戦いを激しく展開したが、いかんともしがたいものがあった。
一方日本もまたアメリカの砲艦外交の前に開国を余儀なくされ、英国やフランスと屈辱的な不平等条約を締結させられるなど、一時は植民地と化すかに見えた。
しかし、1867年に即位した明治天皇は富国強兵を唱え、近代化を押し進め、欧米と肩を並べることによってこの状況を打破しようとした。欧州の憲法や議会制度、軍事力を積極的に取り入れ、義務教育を強行することによって、急速に力をつけていった。
とはいえ、島嶼国家である日本は絶対的に資源や市場に不足していた。また増え続ける人口の捌け口も必要だ。周辺地域、朝鮮や台湾、そして中国大陸に目をつけたのも、当時としてはごく自然な流れであった。
1894年、日本もまた清国に挑戦する。日清戦争である。この戦争の結果、日本は台湾および遼東半島を領有し、朝鮮半島の権益を確固たるものにした。
さらに、1904年の日露戦争では、ロシアから南樺太や関東州(遼東半島南部)を得、南満州の権益を得るに至る。権益の代表的なものに南満州鉄道(満鉄)がある。日本はこの権益擁護と在満邦人の保護のために関東軍を派遣した。
この戦役を、欧米社会(白人社会)対アジア(有色人社会)と見るとき、双方に与えた影響は小さくない。とくにアメリカは早くも日本に対して警戒感を表すようになった。アジアに対しては、アジア人でも白人に抗して自主独立の国家を形成しうるという希望を抱かせたのである。
そんなかに、孫文がいた。
孫文は、1866年、香港の西、マカオに近い広東省香山県(現在の中山県)に生まれた。孫文と香港の縁は深く、学業も主として香港で修めた。大変優秀な若者で、現在でも香港きっての名門である「香港書院(後の皇仁書院、Queen's
College)」、「西医書院(後の香港大学医学部)」を出ている。成績は抜群だったそうである。孫文の革命家としての原点もまた香港にあり、本人自身「――どこで革命を習ったかといえば、私は香港でと答える」と言っている。
革命当時、もし香港から締め出されなければ、間違いなく香港を革命拠点にしただろうという。
その孫文は、日本の近代国家形成に強い影響を受けた。
彼は日露戦争が終結した年、東京で中国革命同盟会を結成し、近代中国統一のための第一歩を踏み出した。
それから6年後、ちょっとしたハプニングで、武昌において、孫文の同志・孫武らの中部同盟会の武装蜂起が突発する。これを合図に革命は各地に波及し、相次いで独立を宣言するに至った。辛亥革命のはじまりである。
そして明くる1912年、孫文を大総統とする南京臨時政府が成立する。清国最後の皇帝宣統帝は退位し、ここにアジアで初めての共和国、中華民国が建国されたのである。
だが、孫文に替わって大総統に就任した袁世凱が、帝政を復活させようとしたことで、翌年早くも内紛が生じ、第二革命、第三革命といった武力抗争が起きる。第三革命では貴州をはじめ、いくつかの省が反袁を掲げ独立する。思わくの外れた袁世凱は、1916年に帝政取り消しを宣言するが、その3か月後死亡した。
一方日本に亡命していた孫文は、1917年広東に戻り、広東軍政府を樹立し、大元帥に就任した。
南北に2つの政府が存在することになった。
中国政府が内紛でごたごたしているころ、欧州に第一次大戦が勃発した。
請われて連合軍側に参加した日本は、この機に乗じて、ドイツが権益を押さえていた山東半島南端の青島を奪った。また中国に対して、主権を蹂躙するような21箇条の要求を突きつけるなど、露骨に中国支配を強めようとした。このころから中国の反日感情は高まり、排日・侮日運動が展開されることになった。
大戦終結後のパリ講和会議で、中国は山東半島返還、21箇条要求の撤廃を主張したが入れられず、中国国民は激怒、五・四運動へと発展していった。
1919年5月1日、パリ講和会議で中国の主張が認められなかったというニュースが北京に伝えられた。人々は驚き、怒った。反帝・愛国を標榜する、北京大学を中心とした各大学の学生たちはすぐさま集会を開いた。
そして5月4日、大学生たちは天安門前に集合し、「21箇条を取り消せ」、「青島を返せ」、「同胞よ立ち上がれ」といったスローガンを書いた小旗やビラをもってデモに移った。その数3000人以上といわれる。
この学生デモは瞬く間に中国全土に波及し、その後1か月以上にわたって、各地でストライキや日本製品不買運動が起こった。
そして6月28日、パリ講和会議の条約調印式において中国の全権代表が調印を拒否する、という成果を獲得したのである。
一方、大戦中ロシアに革命が起こり、ロシア帝国は倒れ、代わってレーニン率いるボルシェビキが社会主義政権を樹立し、ソビエト連邦を成立させた。
そのソ連は言葉巧みに中国に接近し、中国政府が恐れたように、国内の革命勢力に接触をはじめた。1920年、上海に中国初の共産主義グループが誕生、その後各地にも誕生した。翌年には上海で第1回の全国代表大会が開催され、ここに中国共産党(中共)が成立する。集まった代表のなかに、湖南代表の毛沢東がいた。
中国共産党が誕生した同じ年、孫文の第2次広東政府が成立した。その2年前、五・四運動の大きな波を目の当たりにした孫文は、革命において大衆の果たす大きな役割を痛感、それまでの中華革命党を改組・改称して中国国民党とした。
五・四運動直後、孫文は日本に対抗していくためにアメリカに支援を求めたが、アメリカはこれを拒否した。そのため孫文は以後、中国に利権をもつ資本主義国家全体と対決する姿勢を取るようになり、対照的にソ連に接近していった。
ソ連を背景とした中国共産党の力を中国統一・独立に利用したい孫文国民党と、中国国内での共産党の合法的活動の場を得たいソ連の思惑が一致し、1924年、第1次国共合作が成立する。
かくして、反軍閥、反帝国主義闘争の統一戦線はなった。
その年、孫文の指導のもとに、国民党の軍隊は中国統一に向けて北伐を開始した。しかし、孫文はその途上病に倒れ、翌年、志半ばにして北京にその生涯を閉じたのである。59才であった。
孫文の死後、後継者選びが起こり、その結果、広州で汪精衛(汪兆銘)を首班とする中華民国国民政府が成立した。
政府はまず本拠地である広東省から軍閥勢力を一掃することにより、政権強化を図り、国民党内にくすぶる反合作派を封じ込めた。この間にあって活躍したのが蒋介石であった。また共産党指導による労働運動も国民党政権を支える重要な柱となっていた。
しかし、蒋介石は次第に反共的態度を強めていく。その過程で中山艦事件が起きた。蒋介石は、これを彼に対するクーデターと判断、関係した共産党員の逮捕に踏み切った。この処置をめぐって蒋介石と汪精衛は対立し、汪精衛は逐われた。蒋介石はさらに国民党内での共産党員の活動を制限していった。
国民党は内から少しずつきしみはじめていた。
蒋介石は国民革命軍総司令官に就任し、党内での主導権を確保する意味もあって、北伐を開始する。北伐による全国統一は孫文以来国民党の一貫した目標であった。
当初中共は北伐には反対であったが、いったん開始されると積極的に軍を送り込み、解放された労働者や農民を組織していった。
北伐の展開過程で遷都問題が起きた。南昌を主張する蒋介石と武漢を主張する国民党左派及び中共は対立し、広州の中央政治会議は政府の武漢移転を決定、実行に移し、武漢政府を実質的にスタートさせてしまった。さらに国民革命軍総司令の地位廃止を決定し、蒋介石に逐われた汪精衛が武漢政府に合流するに至って、蒋介石との決裂は決定的になった。
蒋介石は対抗上、上海で反共クーデターを断行し、多数の共産党員を処刑し、南京にもうひとつの国民政府を樹立した。
しかしながら、武漢政府における中共の台頭は地主的基盤をもつ軍隊内部に反共的態度を募らせた。やがて武漢政府は内部崩壊に至り、ついに国共分裂となる。中共は武漢政府を去った。
これにより南京と武漢の両国民政府は形式上統一されるが、内情は統一とは程遠いものであった。
蒋介石は国民革命軍総司令に復し、反共姿勢を明確にすると共に、北伐を再開した。
北京には地方軍閥のひとり、張作霖がいて、満州一帯を支配していた。蒋介石が上海でクーデターを起こしたころ、張作霖は北京政府を樹立し、自らを大元帥と称していた。
革命軍は、途中済南で日本軍との衝突もあったが、北京入城を果たした。
ところで、いずれ満州を分離・独立させたいと考え始めていた日本陸軍にとって、国民党の統一運動に抵抗する張作霖は、重宝な存在であった。支援もしていたようである。しかし、後には独立欲が強くなり、日本にとって利用価値はだんだんと薄れていった。
革命軍が迫り、張作霖の敗北が必至と判断した日本陸軍は、彼に対し満州への早期撤退を進言した。張作霖もやむなくこれを受け入れ、奉天へ帰還することになった。その帰途、奉天郊外において、列車もろとも爆破され、あえない最後を遂げた。首謀者は関東軍の高級参謀であった。”用済み”の人物は有無を言わさず抹殺されたのである。
張作霖のあとを引き継いだ息子・張学良は、はじめこそ日本寄りの態度をとったが、すぐに国民党に帰順、青天白日旗(国民党の党旗)を掲げるに至った。蒋介石の中国統一は、これによって一応目的を達することになった。
北伐が終了し、中国革命が軍政から訓政の段階に入ったことを明らかにした蒋介石は、新たに国民政府を組織し政府主席に就任した。
しかし、統一といっても表面上のことで、政府内部の不満分子の存在や中共の躍進が、その後の蒋介石を苦しめることになるのである。
アメリカ、英国は、いち早く国民党政府を承認した。しかも両国とも中国の関税自主権を認めるなど、従来の植民地政策から現地政権育成へと大きく変化した。これは日本に対する牽制の意味もあったろう。とにかく、これによって、中国に武力をもって対する国は日本だけになってしまったのである(一応国民政府を承認はしているのだが)。1928年のことである。
さて、国民党と袂を分かち、武漢政府を去った中国共産党は、その後武装暴動路線に転じ、各地で暴動を起こすが、いずれも失敗するか、長続きしなかった。この過程での最大の収穫は、紅軍(後の人民解放軍)の創出である。
江西省井岡山に革命根拠地を樹立した毛沢東も、朱徳らと紅軍第四軍(朱毛軍)を編成した。
中共は紅軍の整備・育成に力を入れ、各地にソビエト区を誕生させていった。その中にあって毛沢東は着実に地歩を固めつつあった。
1931年、江西省瑞金において、中華ソビエト臨時政府が樹立された。
毛沢東は中央局書記に就任するが、その年の暮れには周恩来が中央局書記に就任している。毛沢東は、中央局書記という後方職よりも、軍権を掌握する第一方面軍総政治委員を選んだのである。実際毛沢東の活躍は素晴らしく、国民党による中共の大包囲戦を3度にわたって退けた。
ところが、同じく軍権を狙う周恩来との間に対立が生じ、毛沢東は一時瑞金を退き、軍権は周恩来の手に落ちた。
その後、毛沢東は瑞金に戻り、臨時中央政府主席に就任し、以後毛主席と呼ばれるようになる。
そのころ中国の東北では、日本陸軍の謀略によりひとつの国が誕生していた。
帝政ロシアが倒れ、ソ連が誕生したことは、中国だけでなく、日本にも影響を与えた。この政権交代は、当初日本国内に軍縮の機運を起こした。しかし、1928年に発表されたソ連の第1次5か年計画では国防強化、極東ソ連領の経済開発が謳われたことから、満州方面に対するソ連の圧迫が高まるのは必至と、陸軍、特に出先の関東軍内部では考えられた。
また1929年にはニューヨーク株式の大暴落に端を発する世界恐慌が起こり、日本も経済不況に見舞われた。これと歩調を合わせるように、軍部の台頭が目立ち政局は混乱した。日本はだんだん行き詰まってくるのである。その突破口として、国民や政治家、軍属の目に映ったのが、満州である。
当時満州では、中国の排日運動が激化し、日中間には問題が山積した状態だった。といって、日本が満州から手を引くことはないし、中国も満州を諦める気はさらさらない。
ソ連に抗し、中国もまた安定させるためには、満州を安定させる以外にはない、しかもソ連の動きから事は急を要する、このような考えが陸軍内部で広まっていった。そして関東軍では、武力による満州問題解決の計画が秘密裏になされ、実行されたのである。
奉天付近の柳条湖での満鉄線爆破事件である。
関東軍自作自演のこの事件を、張学良軍の仕業と偽って、関東軍は満州全域の制圧を目的として軍事行動に出て、瞬く間に主要都市を占領した。
ときに1931年、満州事変の勃発である。
中国政府は直ちに国際連盟に提訴、連盟は英国のリットン卿を団長とする調査団を現地に派遣した。
一方日本陸軍は翌年、清朝の廃帝宣統帝(溥儀)を擁立して、五族協和・王道楽土の理想郷として満州国を建国し、既成事実化を図った。
だが、国際社会の目は厳しかった。リットン調査団の報告を受けた国際連盟は、満州における日本の権益を大幅に認めながらも、満州国否定の立場をとった。反対演説を行った松岡代表はそのまま席に戻らず退場した。日本は満州国と引き換えに、先に脱退したドイツ同様、国際社会から孤立する道を選んだのである。1933年のことである。
初期の構想では、文字通りの意味で、満州国を諸民族の共存共栄の国とするつもりであったようだが、関東軍全体でそう考えたものは少なく、結局日本人優位の日本の植民地にしてしまった。影にまわるはずだった軍部がおおっぴらに政治に干渉し、差別待遇を助長したのである。この結果、当初の目的は早々に霧消し、あとに残ったのは諸民族の日本に対する憎悪だけとなったのである。
余談だが、利害の対立する2カ国が国境をはさんで直接対峙することは、双方に緊張を呼び、はなはだ危険でもある。こういう場合、中間に独立国をおいて緊張を緩和することは戦略上の常套手段である。旧ソ連がドイツとの間に東ヨーロッパ諸国をおいていたのが好例だ。日本の場合も、とくに朝鮮半島を安定し安全なものにするには、満州国建国は不可欠だった。大戦後起きた朝鮮戦争に参加した連合軍のマッカーサーは、中国軍との対決でそのことを実感したということである。
ともあれ、日本軍はその後も周辺地域を次々と手中に収めていった。
この事態に、民衆の「抗日救国」の声は急激に高まり、日本商品のボイコット運動も展開された。またさまざまな抗日義勇軍が結成され、抗戦を繰り返した。しかしこれら民衆の運動とは裏腹に、国民党および中共自体は、両党とも相手党をつぶすのが先決だと主張し、実質なにもしなかったのである。
実際、国民党は、満州事変では国際連盟提訴など外交的対応を取ったものの、あとは内紛処理や共産党討伐に力を注いでいた。中共もソビエト革命に専念していただけである。
1933年、国民党は中共に対し第5次の大包囲戦を挑む。作戦を変更した国民党は今回は優勢に戦いを進め、中共の要地と兵員を次々に失わせ、ついに根拠地瑞金を陥落、中共は中央ソビエト区を放棄して西方に逃れた。有名な長征の開始である。
その途中の1935年には貴州の遵義を占領し、そこで中央政治局拡大会議、通称遵義会議が開かれた。議題は第5次大包囲戦の戦略戦術問題だったが、ここで毛沢東は巧妙に立ち回り、周恩来を退け彼の手から軍権を奪回した。毛沢東は中国共産党中央の主導権を握ったのである。
その後苦難の行軍は続き、翌年延安に到着して、2年にわたる長征を終えるのである。
一方中国国内では知識分子を中心に国共の内戦停止が叫ばれた。これに呼応するように、中共は国民党に対し柔軟な姿勢を示し始めたが、蒋介石は頑として中共討伐の姿勢を崩さなかった。そこに突然西安事件が起こった。
中共に対する包囲討伐作戦を指揮、督戦するために西安に滞在していた蒋介石を、現地で指揮の任に当たっていた張学良らが監禁したのである。張学良はすでに中共と停戦協定を結んでいた。
事件の処理に当たって協議を依頼された中共は周恩来らを現地に送り、蒋介石に対し統一して抗日に当たることを説得した。蒋介石は折れた。抗日救国の要求には抗しきれなかったのである。こうして、ようやく統一抗日の道が開かれた矢先、蘆溝橋事件が起こった。
1937年7月7日、北京郊外の蘆溝橋付近で演習中の日本軍に一発の銃弾が放たれた。宣戦なき日中戦争(支那事変)のはじまりである。これを契機として、日中は8年に及ぶ泥沼の戦いに踏み込んでいった。
日本政府は直ちに不拡大、現地解決の方針を表明し事変の早期処理に期待をかけたがうまくいかず、戦火は上海に飛び火、次いで南京に移る。
第2次国共合作を成立させた国民政府は、首都を南京から重慶に移して徹底抗戦に入る。
日本軍の進撃は目覚ましく、山東省、徐州、広東、武漢を次々に落としていった。しかし、中国軍は頑強に抵抗した。日本軍は焦った。考えてみれば、広大な中国全土に較べ、日本軍の占領した地域はあまりに少なかった。中国軍は広大な地形を巧みに利用し、進退自在な戦法をもって日本軍を翻弄し、疲れさせた。結局、日本軍の企図した武力による早期解決は失敗に終わるのである。
中国との戦争は、日本軍にとってある意味予定外であった。中国を過小評価し、一撃を加えれぱ簡単に降伏するものと高をくくっていた。しかし、日本軍は、自分たちの行動が中国民衆の民族意識に火をつけたことの重大さを十分認識していなかった。大きな誤算であった。
それともうひとつ、ソ連の存在がある。日に日に増大する極東ソ連軍の脅威に対抗するために、戦力を確保しなければならず、このため中国戦線に十分な戦力を投入できなかったことも一因であるといわれている。
武力による解決に失敗すると、日本はこんどは政治的決着を図ろうとして、和平工作に出たが、これも失敗する。国民政府に対抗して汪精衛による日本傀儡政権(新中央政府)を成立させるが、即効は期待できなかった。日本は次第に手詰まりになっていった。最後に取ろうとした作戦が、援蒋ルートの遮断による封じ込めであった。
当時、日本の中国への介入に反対の立場を取った米英仏は、蒋介石政府を支援するために、仏印(現ベトナム)、香港、ビルマを経由して物資を首都重慶に補給していた。この経路を援蒋ルートと呼んだ。これがために、蒋介石はがんばることができたのである。逆に、このルートが絶たれれば、中国はジリ貧になって降伏するだろう、日本軍はそのように考えたのである。
そうこうしている内に欧州では第二次大戦が勃発した。
欧州におけるドイツの緒戦の戦果は、日本を完全に幻惑した。
本国を攻撃された英仏の、極東における守りは手薄になった。
好機を逃すな。事変処理と南方資源獲得を企図して、日本はまったく衝動的に動いた。
日本は援蒋ルートの閉鎖を英仏に強要し、軍部は北部仏印に進駐した。そのころにはパリは陥落してフランスはドイツの意のままであり、英国もまた風前の灯だった。うまくいくはずだった。
しかしアメリカがいた。アメリカは対日警戒感を強めた。
アメリカはそれまでにも、日米通商条約を破棄するなど、日本に対して圧力をかけていたが、日本軍の北部仏印進駐が行われると、直ちに蒋介石政府に2千500万ドルの借款供与を表明、さらに追いかけるようにして対日屑鉄禁輸を発表、実施した。アメリカの重慶国民政府に対するドル借款はその後終戦まで続く。弱腰だった英国も、アメリカに後押しされる形で、ビルマ・ルートを再開した。
この時期、もうひとつ重要なものとして三国同盟がある。日独伊が協調することにより、さらにはソ連も巻き込むことによってアメリカを牽制しようとしたものだが、実際上の取り決めは無きに等しいものだった。ただひとつ、そして重要なことは、この同盟締結で、日本がアメリカに対して明確に敵に回ったことを表明することになったことである。
さらに翌年、日ソ中立条約が調印された。これにより、とりあえず北方の脅威は除かれることになり、日本軍をして南方作戦に集中させうる状況ができた。
ところでもうひとつの見方としては、極東における対立の構図が、英仏が去ることによって、中国をはさんでの日米対立という単純な構図になったということである。
日本はアメリカを甘く見ていた。最終的にはアメリカは英国を見捨てるだろうと踏んだのである。
日本軍は南部仏印に進駐した。仏印、タイ、ビルマに睨みを利かせ、重慶の背後遮断をねらったのである。日本にとって、特に陸軍にとって、南部仏印進駐は、あくまで日華事変処理の処理が目的だった。もちろんその後の南方進出の足がかりの意味もあったが。
日本軍の南部仏印進出の国際的反響は大きかった。特にアメリカは極度に態度を硬化させ、在米日本資産の凍結、続いて対日石油輸出禁止の措置を取った。
屑鉄に加え、石油までとめられてしまっては、最早どうすることもできない。日本は進退窮まった。
かくして日本は対英米戦争を覚悟することになった。
1941年11月26日、野村、来栖の両駐米大使は、アメリカのハル国務長官から3通の書類を受け取った。ハル・ノートと呼ばれる、アメリカ側の最後通牒である。これを受けた大本営は対米英蘭開戦を決意した。
太平洋戦争開戦として真珠湾攻撃はあまりに有名だが、じつは、日本軍の雷撃機がオアフの飛行場を機銃掃射し、戦端を開く1時間以上も前、南方作戦部隊は、マレー半島コタバルにおいて英国とすでに交戦状態に入っていた。
日本軍の主力が半島に上陸を果たすと、直ちにシンガポールに向け快速進撃を開始し、翌年2月15日にはシンガポールを完全に占領した。
同時に実施されたフィリピン作戦では、1月2日に占領を完了した。
香港方面では、英国のつまらない意地が、戦禍を大きくしてしまった。
当時香港は九竜半島も含め、要塞化されていた。しかし大局的には日本軍の制海・制空権のなかで孤立した要塞であって、防御は不可能な状況であった。にもかかわらす英国は撤退を選ばず、かえってカナダ軍を増加する愚を犯した。
12月8日、日本軍は陸づたいに九竜半島の防御陣地に迫った。陣地突破には時間がかかるだろうとの予想だったが、尖兵隊が陣地の欠陥と警戒の不備を発見、果敢に攻め込むやあっという間に奪取してしまい、13日には九竜半島全域の掃討を終了した。英国軍の大失態である。
九竜半島を占領した日本軍は、180万の居留民に戦火が及ぶのを避けるため、2度にわたって英国軍に降伏を勧告した。しかし、英国軍はこれを拒否、日本軍は徹底的な攻撃に出た。激戦の末、25日ついに英国軍は降伏し、香港後略を終了した。降伏した英国軍は約11,000名であった。
日本軍はこのほか、ボルネオ、ジャワ、ビルマ、グァム、ウェーク、ビスマルク、チモールを占領していった。かくして南方作戦の第一段階は、予定どおり、5月中旬に終了したのである。
その後、アメリカが戦争準備を完了して、攻勢に転じ、運命のミッドウェイを迎えるまで、日本軍の快進撃は続くのである。
日本陸軍は、太平洋戦争を支那事変解決の延長とみなし、戦線が単に南方にひろがっただけと考えた。そこで、南方第一段階作戦が終了すると、すぐさまその戦果を利用して事変処理にかかろうとした。
それより少し前、アメリカのB25陸上爆撃機が不意に東京を空襲した。調査の結果、アメリカの空母を飛び立った爆撃機は空襲を終えた後、華中方面の飛行場に着陸したことがわかった。当時中国には蒋介石支援のため、アメリカの航空義勇隊(戦闘一大隊)が駐屯していた。
日本は華中方面の飛行場の攻略を決意し、実行に移した。
その後、重慶攻撃の準備に入るが、その決行は早くても翌年の春以降の予定だった。しかし、アメリカの反抗が本格化し、戦闘の焦点が南方(ガダルカナル方面)に移るにおよび、重慶攻撃作戦は中止となる。
これを境にして、中国大陸は、主作戦場(第一義的な戦場)から支作戦場(第二義的な戦場)となっていった。
1943年以降、日本軍のビルマ占領によって、援蒋ルートを押さえられた蒋介石政府は、困窮のどん底にいた。米英は、ヒマラヤ越えの空輸ルートを活発化して対処すると共に、ビルマ奪還の準備に入る。同時に、中国各地の飛行場からの日本本土爆撃も計画し、B29爆撃機を準備していた。
日本は、このような在華アメリカ軍による本土爆撃を防止するため、桂林、柳州などの地区を攻略していった。それにもかかわらず、翌年には在華アメリカ軍による北九州爆撃が起こった。B29のような長距離爆撃機の基地を地上作戦だけで押さえようとしたことに無理があったのである。
1945年になると、在華アメリカ軍の活動はますます激化した。また満州北方では極東ソ連軍の強化が続いており、これへの対処も要求された。これらのための態勢立て直しの最中に、支那派遣軍は終戦を迎えたのである。
参考だが、第二次大戦では、連合国、枢軸国あわせて、1700万人近くの死者と行方不明者を出した。また直接の戦費は同じく1兆ドルを越えた。
中国共産党にとって、大戦終結後からが本番であった。
大戦中、武漢を失ったころから、国民党と中共の対立は再び起こった。それが大戦終了後、顕著になっていった。しかし、中国内外の内戦回避の希望は大きく、アメリカ大使をはさんで調停工作が続けられ、一時は国共停戦協定締結までこぎ着けた。が、結局両者の溝は埋まらず、内戦は勃発した。
はじめは数で有利な国民軍が優勢に戦闘を進めたが、大戦中から民衆の支持を集めていた中共が次第に国民軍を圧倒しはじめた。国民党は敗走に敗走を重ね、首都を広州、重慶、成都と次々に移していった。国民党が重慶に位置するころ、北京では毛沢東の中華人民共和国が成立していた。1949年10月のことである。
そして、その年の12月、蒋介石国民党は大陸から追い落とされ、台北に向かったのである。
次に、この間の香港の歴史のなかで、いくつかトピックスを見ていこう。
アヘン戦争後、完全に英国の支配下に置かれ植民地となった香港は、当然のように英国から差別を受けた。住民の9割以上が華人(中国人)だというのに、である。例えば、アヘン戦争が終結して香港が英国領となった直後、華人のみに夜間外出禁止令がでている。これはその後55年も続いた。
華商の何東は、種族や信仰によらずともに学ぶことを理想として、巨額の寄付をして小学校を建造した。が、英国当局はここを強制収用して英国人専用の学校にしてしまった。当局は代わりに別の土地を与え、華人専用の学校用地とした。種族別学を通したのである。
さらにヨーロッパ人居住地区の華人の立入禁止を行ったほか、本土に革命機運が高まったころには、革命宣伝記事の新聞掲載禁止をして華人を憤慨させた。また、電車と公園のベンチに西洋人専用シートを設けるべしという投書が新聞に載って物議をかもした。中国に中華民国が誕生してからは、香港での同国紙幣の使用を禁止して住民を激怒させた。民族の尊厳を刺激したこの事件では、電車「不乗」運動で対抗し、電車公司は大打撃を被った。
この傾向は第二次対戦が終結してよほど緩和されたが、無くなったわけではなかった。例えば戦後香港政庁は市議会を組織したが、30名からなるこの市議会の構成は、華人と洋人(外国人)が半々であった。民選はそのうち20名ずつだったが、選挙権(当然被選挙権も)は洋人の場合香港居住期間が1年以上を条件とされたのに対し、華人の場合のそれは10年以上だった。人口の絶対多数が華人であったことを考えれば、公正な選挙ではなかった。また住民に発行されるパスポートも、英国領とは言いながら、本国のそれとは異なる、特別なものだった。
後に英国が香港を返還する際の条件として、民主主義の存続などいろいろ注文をつけたが、「それでは英国はこれまでどれほど香港住民に対して公正だったのか」という中国側の反論には、英国は答えられなかったのである。
20世紀初頭、香港の産業は海運関係が主だった。1921年に海員組合(中華海員工業連合総会)ができると、さっそく雇用者に対して賃上げを要求した。当時海員の賃金は不当に低く抑えられていた。差別待遇であった。
これに対し雇用者側は要求そのものを無視した。組合は、ストを予告し、翌年の1月に決行した。
中国人海員は続々と下船、上陸して近隣の広州にさっさと引き上げてしまった。完全な職場放棄である。ストは運輸関係の労働者にも波及した。香港政庁は海員組合の解散を命令したが、かえって逆効果だった。
広州は孫文政権の影響下にあり、海員組合はそれを後ろだてとしていた。広東省の総工会も彼らをバックアップした。英国商品のボイコットも起こり、さらにストの影響は上海にも飛び火した。
そしてついに英国兵の発砲事件が起き死者が出るのである。スト側は態度を硬化し、反英運動は中国全土に広がった。この結果、英国は全面屈伏せざるを得なくなり、海員組合は15%から30%の賃上げを獲得して、56日間のストは組合側の完全勝利で終了した。
大規模なストはこのあと、今度は上海を震源地として起こった。上海にあった日本資本の紡績工場の解雇問題がこじれ、発砲騒ぎに発展し、またもや死者が出た。抗議集会やデモは中国全土におよび、香港にも波及した。
香港や広州を中心とする「省港大罷工」と呼ばれるこのストはなんと16か月に及んだ。香港から清掃人がいなくなったので、香港の街はゴミであふれかえり、悪臭が香港中を覆った。「香港」はいまや「臭港」に変じてしまったのである。
しかし、今回のストは前回とは異なっていた。前回は孫文を中心に広東政府は一致団結していたが、今回はストに反対する蒋介石ら右派とスト支援派の左派に対立していたのである。英国はこれに乗じて強硬策に出た。形勢不利とみたスト側は、スト解決の話し合いに入ったが、双方意見の一致をみないまま、一方的にストの収束を宣言した。
ストが英国に与えた損害は甚大であった。その後、香港行政府への華人登用、香港大学における中国語採用など英国の政策にも変化が出てきた。
香港は英国の植民地ではあったが、大陸との往来はフリーだった。それもあってか、本土で事件や事変が起きると決まって人やもの、金が香港に逃れてきた。
中国東北で満州事変や蘆溝橋事件が起きたときも、各地の工場が人とともに香港に移ってきた。上海事変のときも同様である。
その後日本軍の手が広州に及ぶころから、香港はにわかに脚光を浴びる。国民党と中共の第二次国共合作が有名無実になり、中共が迫害を受けるようになると、重慶や桂林から左派系の文化人らが香港に逃れてきた。元来文化砂漠と呼ばれた香港に文化人があふれ、文化活動が活発になった。文学史上に残る作品も多く発表された。のちに「香港文化の黄金時代」とされる一時期の到来であった。
日本軍が沿海の主要地を占領すると、上海租界と同様に、香港も抗日運動の拠点になる。また中共も香港に連絡所を開設している。
これらのことは、香港が英国領であり、中国や日本がうかつに踏み込めない場所だったことによるものである。
このような状況で、香港の人口は急激に増加していく。1901年の調査では、36万人程度であったのが、10年後の辛亥革命のころには45万人あまりになり、満州事変を経て日中戦争が始まるころには100万人を突破している。その後も増え続け、太平洋戦争が勃発したころは175万人に達していた。
日本軍占領下の香港では、通称「港九大隊」と呼ばれるゲリラ部隊が活躍し、要人の香港からの救出などを展開した。面白いことに占領した側の日本軍も住民の退去を奨励した。というより強制した。100数十万に及ぶ住民すべてを養うことはできないという日本軍の判断によるものである。実際餓死者が続出した。お蔭で終戦直前には香港の人口は60万人まで激減した。
また占領中、日本軍は当然のように香港から英国色を一掃しようとした。例えば町名や通りの名前を日本風なものに変えようとした。クイーンズ・ロード(皇后大道)は明治通、ネザン・ロード(彌敦道)は香取通といった具合である。もちろん定着しなかった。
終戦を迎え、香港の日本占領が解除になる段になって、問題が起こった。香港をだれに返すか、である。奪った先の英国か、本来の帰属国である中国か。英国と中国はともに連合国軍側で戦ったことも問題をややこしくした一因だった。蒋介石とルーズベルトの間では、香港を中国の管轄下に置くことで合意に達していたが、もう一方の当事国英国のチャーチルは返還に断固反対した。
_ こうなれば早い者勝ちである。英国は終戦のニュースと同時に、当時香港島の赤柱にあった捕虜収容所に抑留されていた植民地相F.C.ギブソン卿に、8月16日臨時政府を樹立させた。ただちに太平洋艦隊を香港に入港させ、9月1日には放送局を通じて香港軍政府樹立を宣言した。香港は英国の植民地に復したのである。
終戦直後、新界の「土匪」(土着の盗賊)が一時不穏な動きを見せたが、港九大隊が英国に協力し討伐したため、香港の治安回復は早かった。人口も急速に回復し、1946年末にはすでに100万に達し、その翌年末には180万となって戦前の人口を越えた。
本土の国共内戦時には、香港でも両派の活動は活発だった。北で中共が大勝し、怒濤の勢いで南下を始めると香港は緊張した。が、人民解放軍は「国境」を越えることはなかった。急ぐことはない。1997年まで待てばすむことだ。そう中共は考えたようである。
内戦のはじめのころは左派系の人々が香港に難を逃れてきたが、中共が勢力を回復するとその人々は大陸に帰り、代わって右派系の人々が香港に流れてきた。
本土になにか異変があると、香港の人口は敏感に反応する。それは昔も今も、香港が中国に返還されるまで変わらなかったのである。
さて、アヘン戦争に始まる中国現代史を約100年にわたって駆け足で見てきた。現在まではまだ50年分ほどの歴史があるが、とりあえず、この章はこれにて終わりにする。これ以上続けることは筆者の力量をはるかに越えるし、第一いつまでたってもアグネスが登場してこないからである。