アグネス引退劇のナゾ
ハハ、びっくりなさいましたか? こういう書き物をしていると、一度でいいから、このような扇情的なタイトルで書いてみたいと思いましてね。いや、失礼しました。その内容はというと、その辺の三流誌と同じで、大したことはないのですが。
ところで、本空間最大のやま場(と、書いている本人は思っています)を、とりあえず乗り切ったいま、ひとつ本編を離れ、しばしメイキングストーリなどいうものをお話しさせていただきたいと思いますが、いかがなものでしょう? といったところで、一方的に書いてしまうわけですが。ご興味ある方もいらっしゃるのではと思いまして。というのは単なるこじつけ。実のところは、作成の苦労話を聞いてもらいためだけです。上のタイトルの中身については、そのあと触れていくことにしましょう。
さて、当初は9章がこれほど長文になるとは思ってもいませんでした。目次にもあるとおり、アグネスの記者会見の模様を、淡々と記述するだけで済まそうとしていました。それだけでもそこそこボリュームありますしね。
でも、アグネスの著書から、当時さまざまなうわさが飛びかい、大騒動になったことがうかがわれます。その当時の記憶や資料がいっさいなかったため、それは想像するしかありませんでした。でも想像だけでは、書くわけにはいきません。当時のことは、アグネスの著書「ツバメの来た道」(1989年、中央公論社)で少しは分かります。けれども、彼女も、当然全部は書いてないわけですし、それを引き写すだけではいささか気が引けます。それに、この内容から客観描写を仕立てていくのは至難です(5章と7章で、その苦労を味わいました)。それとは別に、8章を作成していくにつれ、当時の模様を知りたいという思いはだんだん募ってきたのです。
幸いなことに、アグネスのHPのひとつ、「アグネス広場」(http://www2.justnet.ne.jp/~kazuonamaiban/agnes-hiroba.html)に、アグネスの引退を報じた平凡の記事が、号数を明記して掲載されていました。この記事が使えるのでは、と考えたのです。それと、香港での引退発表と、その後アグネスが来日した日付も分かっていました。その事が新聞報道されたことは、アグネスの著書からも分かります。平凡の記事と、当時の新聞報道、この2種類を見てみよう。そう思って、私は図書館に向かったのです。
最近私が利用している図書館は、閉架式といって、ほとんどすべての図書が書庫に収められ、表に並べられてはいない形式の図書館です。見たい図書は、具体的な書名や号数を調べた上、閲覧を要求しなくてはなりません。ですから、とりあえず本棚の本を片っ端から調べていく、などということができないわけです。おまけに、1回に借り出すことのできる冊数に限りがあり、外に借り出すことができないなど、いろいろ不便な面があるのですが、なにせ蔵書が豊富で、大抵のものはここで揃うので、重宝しています。
さて、まず当時の新聞をあたりました。あたったのはスポーツ紙3紙。6月25日以降を見ていくと、27日付で、香港での引退発表が取り上げられていました。いずれも紙面の1/3から1/2近くを使って、大きく報道されていました。当時の関心の高さが分かります。また、これらから当時の日本側の驚きと混乱ぶりも分かりました。引退理由も香港電の形で紹介されていました。
8月5日付の新聞では、来日したアグネスの記者会見の模様が報じられていました。こちらの方は手元にあった「スタ千」の内容と重複することが多く、単に新聞報道があった事実を確認するに留まりました。調べていく過程で、渡辺プロとアグネスのお父さんとの交渉の途中経過や、7日の渡辺プロとアグネスの直接対決の結果も、同様に新聞報道されていることが分かりました。
一方平凡9月号の記事は、引退の経緯が要領よく記され、これと、上の新聞記事とを使えば、そこそこ書けるめどが立ったのです。
ついでに、同時期の明星も見てみることにしました。同誌にもいくつか記事が載っていることは、「アグネス広場」に紹介されているとおりですが、そこで紹介されていない記事に、彼女へのインタビュー記事がありました。これは7日に、つまり彼女が香港からヨーロッパ旅行に旅立つ直前、空港で行なわれたものだそうです。その内容のほとんどは、すでに分かっていたものですが、ひとつだけ、気になる記述がありました。引退理由として、「男性問題」が話題になったらしいということです。もちろんアグネス本人は言下に否定していますが、さあ、こっちとしてはいささか気になります。でも、その記事からは、それが掲載された雑誌名(雑誌であることは、そこに記述がありました)はおろか、時期的なことも一切書かれていません。
ここで悩んだのは、この「男性問題」がいつ出たかということです。2通りが考えられました。ひとつは、以前からその問題が取りざたされ、それが今回の引退劇に結びつけられたと考える場合、もうひとつは、引退発表が出てから、突然取りざたされた場合です。前者の場合、時期的にはこの半年ぐらいのことであろうと、漠然とは考えてみたものの、少なくとも雑誌名が分からなければ、たとえ開架式(蔵書が表の本棚に並べられている、普通の図書館)の図書館でも調べるのは至難の業で、閉架式のここの図書館では、まず不可能です。これは後者の場合にもいえることです。
あきらめるしかないのか。ゴシップ大好き人間としては、なんともあきらめきれないのですが、こればかりはどうしようもありません。
ところで、一般の新聞はアグネスの引退劇をどのように伝えたのか、そちらも気になっていたので、気を取り直して、そちらをあたることにしました。
さすがに一般紙は引退のことは記事にしていませんでしたが、そのとき気がついたのは、新聞に掲載されている、雑誌の発売広告です。ピンッ。ひらめきましたね。アグネスの「男性問題」ならば、絶対に大見出しになって、広告にも載せられているはずだ、これをあたっていけば、見つけられるかもしれない。いったんはそう思ったものの、すぐに思い出しました。時期がはっきりしないのです。引退の時期から遡って半年ぐらいを調査するといっても、新聞は朝刊夕刊あわせて1日分34ページ前後あります。これが半年分、180日としても、6120ページを逐一あたるのは、絶望感が漂います。何とか時期をもう少し限定できないものか。そう思い、当の明星の記事をもう一度見返してみました。そこでは、アグネスはこう話しています。
「男性関係? あ、ボーイフレンドのこと? ワタシ、そんな人いたら、カナダ行かないよ。週刊誌載ってたの!? 初めてよ、そんなこと。どんなこと書いてあるのか、ぜひ読んでみたいね。・・・」
すると、アグネスはこの記事のことを知らなかったんだ。もし、彼女が香港にもどる以前、つまり6月15日以前に、この記事が雑誌に載ったとすれば、本人が見る、見ないは別としても、少なくとも彼女のスタッフの誰かは発見して、面白がって彼女に伝えたに違いない。「ねえ、アグネス。あなた、恋人いるんだって?」とかなんとか・・・。と、いうことは、この記事が出たのは、彼女が香港にもどった15日以降、もっといえば、引退発表をした25日以降から、このインタビューがあった7月7日までの約2週間の間のことに違いない。
ここまで時期が限定できればしめたものです。1976年の6月から7月の新聞の縮刷版を手にとり、該当する期間の新聞をあたり始めました。
ビンゴ! 7月6日の朝刊にその広告はありました。7月24日号の「微笑」の広告で、曰く、
「アグネス・チャンが電撃引退劇! 原因は金か勉学か男性関係か!」
うん、いいタイトルですね。このほか、一応8月の新聞もあたり、アグネスのことを記事にした雑誌を数点(男性関係については微笑だけでした)を見つけました。
こうやって集めた資料は、結局新聞が3紙で各4日分、雑誌類が6誌で12冊になりました。これらを整理し、適当にアレンジして、9章ができたわけです。
ところで、「微笑」の記事の全文が気になりませんか? 9章では、なんとなくまとめたような書き方に見えますよね。でも、実際の記事も、ほぼこれだけでした。記事には、この間の事情に詳しいテレビ局員なる方が登場しているのですが、「こんな騒ぎになると、かえって誤解をうむ部分もあるから、今は話せないな」ですって。あーあ、といったところ。話は違いますが、彼女、昨年(2000年)の雑誌のインタビューで、デビュー当時、フジテレビの人に片思いしていたことを話していますが、もしかして、これと関係があるのでは!? なんて邪推も働いた次第でした。
さて、ここからが本題です。
当時の様子を調べ直していくうちに、少々気になることが出てきました。それというのも、アグネスが、お父さんに言われたために引退を決意した、というのは果たして本当なのだろうか? ということです。9章をお読みになった方は、混乱なさるような話ですが、集めた資料では、9章ほどには、すっきりしているとはいえないのです。このことについて、今からお話ししてみたいと思います。
その前に、これまでお読みいただいた方にはお分かりのことと思いますが、5章、7章および8章は、前出のアグネスの著作「ツバメの来た道」がもとになっています(まあ、パクリと言った方がいいかもしれませんが)。そこでは、アグネスは、6月15日に香港にもどってきてから、お父さんに引退を勧告されたと、はっきり記しています(p.222~p.226)。8月4日の記者会見でも、アグネスは同様な内容の説明をしています。9章は、ですから、その線で記述しました。
ところが、調べていくにつれ、一見すると、これらと矛盾する、いくつかの事実にぶつかりました。ここでいう「事実」とは、そういう記事が公の雑誌に掲載された、ということで、その記事の真偽を言っているわけではありません。念のため。
まず、6月27日に報じられた、香港での引退発表を伝える記事で、時事通信も共同通信もそろって、アグネスが、「日本を離れる前、すでにカナダ留学を決めていた。香港にもどってから家族と相談、25日までの家族会議でみんなの賛成を得た」と語ったと、伝えてきています。これは「ツバメが――」の記述と真っ向から食い違います。
7月11日号の週間明星では、アグネスの父親と個人的親交のある某有力者(なんという表現!)の話として、「アグネスは1か月前から引退を決意していた」と述べたとあります。この取材日は6月28日となっています。そこから1か月前であれば、アグネスはまだ日本にいた時期です。
7月15日号の週間平凡は、アグネスの父親との独占インタビュー記事を載せています(インタビューの日は7月1日。つまり渡辺プロの松下氏らとの話し合いがあったあと)。そこでは、松下氏らが提示した妥協案に対して、彼がいい案だと賛意を示し、でも結論は母親や本人が帰ったあと家族会議で決めたい、と彼が述べたとあります。これは9章でも記したとおりです。ですが、9章では書きませんでしたが、彼は、このあとこう続けています。「(家族会議では)アグネスは、私の気持ちをわかってくれて、たぶん引退を思いとどまってくれることでしょう」この発言ついては、4日の来日記者会見のアグネス本人の事情説明とあわせて、週間平凡8月19日号が、その矛盾を指摘していますが、深くは突っ込んでいません。
アグネス自身の発言では、こんな発言もあります。これは前出の明星9月号のインタビューにあったものですが、「――(香港の)記者会見で話したことは(芸能界を引退して、カナダに留学すること)は、ぜんぜん変ってないよ。1年がかりで結論出したんだもの」(7月7日)
さあ、ここまでの情報だと、アグネスは香港にもどる前、すでに自分で引退を決めていたように見えます。現に、日本のマスコミも、アグネスが8月4日に来日して自ら説明するまでは、そのように考えていたように見えます。ところが、アグネスは、その記者会見の席で、それを覆すような発言をしたわけです、そうではない、香港にもどって、初めて父親から言われたのだ、と。
さて、これとは別に、アグネスの他の著書を調べ、ほかに引退に触れている記述がないかどうかをみてみました。ただ、全部の著書をあたったわけではないので、漏れがあると思いますが。
2冊を見つけました。1冊は「ひなげし語録」(現代出版、1984年)です。ここには、「――それで父がカナダの大学へ転学する話を持ち出してくれたとき、思いきってとびついたのでした。」(p.74)とありました。
もう1冊は「みんな地球に生きる人」(岩波書店、1987年)です。ここでは、「――カナダに行くために、引退しようとした時、父は大賛成でした。」(p.160)と書かれています。もっとも、この先(p.165)には、父親にカナダに行けと言われたととれる箇所があります。
もうひとつ、昨年(2000年)に放送された「スタジオパークからこんにちは」(NHK)では、彼女はこのように言っていました。「――うちの父の影響なんですよね。やっぱり、このまま芸能界の中にいると忙しいばっかりで、頭ばっかりでっかちなってしまうといわれたんです。自分が価値が分からなくなるんじゃないかと。で、誰も君のこと知らないカナダへ入学しなさい、っていうことで。で、それがきっかけでカナダへ行ったんですよ。」この発言は「みんな地球――」の記述内容にほぼ一致します。
つまり、ご自分の著書や、最近の発言では、引退のきっかけは、父親の助言だったということで一貫しているようです。
香港電で伝えられた彼女の発言が事実(ここでは、発言内容が正確に伝わっている、という意味です)であったとすれば、7月7日、アグネスがヨーロッパ旅行に旅だった日を境にして、それ以前では、アグネス自身が、香港にもどる前に引退を決めていたととれる、といっていいようです。それが来日した8月4日以降は、25年後の今日にいたるまで、アグネスは、父親の助言であったと言っています。
これはどういうことでしょうか。アグネスの話が矛盾しているのか、それとも、まだ何か見落としがあるのか・・・
さらに興味深い事実があります。上智大の退学届けです。
アグネスが帰国する直前の6月12日、上智大学に退学届けが出されたと、報じた雑誌が、3誌ありました。いずれもニュアンスは微妙に異なります。
週間明星、7月11号:――本紙が上智大学国際学部に確かめたところ、「6月12日付で退学届けを受理しました。理由は本人の希望でカナダの大学に入学するということです。出席率もよく、9月から4年に進むはずでしたが、意志も固くて了解したわけです」
週間平凡、7月15日号:――アグネスは、すでに上智大には、「退学したい」意思を伝えている。「6月12日、口頭で伝えられました。これまでたいへん熱心に授業をうけてたのですけどねえ・・・」(上智大国際学部・コリンズ神父)しかし、まだ正式に届けを出すまでにはいたっていない。
微笑、7月24日号:――しかし、アグネスは帰国3日前の6月12日に、在学中の上智大学国際学部に退学に必要な手続きをしている。「代理の男性の方が退学に必要な成績証明書交付の手続きに来られました。アグネスさんから、カナダで勉強したいので退学を考えているとは前もって聞いていました」(事務部長・コリンズ氏)
記事のニュアンスは異なるにしろ、3誌までもが同様に報じていることから、6月12日という時点で、上智大へ退学届けの手続きがあったという事実は確かなようです。では、誰がその届けを出したのか?
上に挙げたうち、平凡と明星の記事は、一見アグネス本人が行なったようにも読めますが、文字通りにおっていけば、誰が退学届けを出したか、あるいは口頭で伝えたかを語っていません。それが微笑の記事では「代理の男性」と、明らかにアグネスとは違う人物が登場します。本当にそうなのでしょうか。微笑は、一方ではアグネスの男性問題を伝えるなど、記事全般をどこまで信用するかは難しいところですが、退学届けの一件については、私は微笑のこの記事を信用します。内容が具体的だからというのがその理由です。
この「代理の男性」なる人物は一体誰だったのか。微笑はそこまでの追求はしていません。この場合、2つ考えられます。ひとつはアグネスの父親か、あるいは父親の代理である場合、もうひとつは、もちろんアグネス自身が代理を送った場合です。いずれの場合でも言えると思うのですが、本人の了解なしに、単に代理人というだけで、退学届けという大事な手続きが、果たしてできるものかどうかということです。私はこの種の届けをしたことがないので、なんとも言えませんが、当時アグネスは20歳で、国内では成人に達しているとみられることまで考えれば、少なくとも本人の委任状が必要になるのではと考えます。もしそうであれば、「代理の男性」が誰であろうと、また誰が彼を上智大に行かせようと、アグネスは退学届けを出すことを知っていなければならないわけです。言い換えれば、この時点でアグネスは、引退を決意していたと、考えることもできそうです。。
ただ、平凡は当然ですが、他の2つの記事も、注意深く読むと、正式な届けは出ていないようにも読めます。微笑と平凡の記事から、明星の「受理しました」というのは、口頭による退学の意思表明を受け、大学側が反論しなかったことを指す、ととれないこともありません。微笑の記事も、成績証明書交付の手続きに来たと、言っているだけです。正式な退学届けではなく、その一部の成績証明書の交付だけであれば、親族が代理であれば、あるいは可能なのではないか、とも思います。まあ、憶測の域を出ませんが。なおアグネスのお父さんは、彼女の契約について打ち合わせるため、6月のはじめ(半ばごろととれる記事もあります)に来日し、渡辺プロを訪れています。
このような発言の食い違いは、当時の雑誌でも取り上げられています。週間明星の8月22日号では、8月4日の記者会見での発言と、それまでの話との食い違いについて、「引退を父親のせいにしたのは、日本のファンや関係者への気がねだったのか」と述べています。つまり、本当はやはりアグネス自身が引退を決めたと考えているのです。でも、その後25年にわたって終始「父親の意見に従って」と、説明し続ける理由としては、「日本のファンや関係者への気がね」だけでは、なんとなく弱いような気もします。
アグネスが香港にもどるまえの6月11日には、新番組「新・二人の事件簿」の撮影が調布の大映スタジオで始まり、アグネスは次回、つまり香港からもどってからの撮影用衣装合わせを綿密に行なっていったといいます。また、帰郷直前の14日には、「夜のヒットスタジオ」に出演した後、ワーナーパイオニアのスタジオで「新曲」のレコーディングを深夜にわたって行なっています。いずれの関係者も、アグネスは普段と全く変わりがなかったと言っています。香港にもどった15日、恒例になっていた、香港の空港での記者会見の席でも、同様でした。さらには、「新・二人の事件簿」の香港ロケのクルーも、変った様子はなかったとインタビューに答えています。ちなみに、アグネスの8月4日の記者会見での発言から、引退の話は、帰った直後に聞かされていたものの、忙しかったため、本格的な話し合いが始まったのは、このロケーションが終わったあとからのようです。
アグネスの性格や、4日の記者会見の彼女の感情の激しさから、引退という重い決意を秘めたまま、長期間だれにも気がつかれずに仕事を続けられたとは、ちょっと考えづらいとも思います。
合理的な解釈ができないか、いろいろと考えてみましたが、残念ながら私の頭では思いつきませんでした。ただ、いくつかの事実をかなり強引に読めば、あるいは、という解釈が、なくはありません。でも、それはあまくで私の憶測に過ぎないので、それをお話しさせていただくことは、差し控えたいと思います。
皆様はどうお考えになりますでしょうか?「何つまらないことを言ってるんだ」というところでしょうか。まあ、そうでしょうねえ。もし、真相をご存じの方がいらっしゃれば、教えてください。
最後に、上でも引用した1976年9月号の明星には、アイドル人気投票の中間報告が載っていました。これによれば、1位は、2位に1万票あまりの差をつけて、ダントツの山口百恵(105,743票)、以下桜田淳子、岩崎宏美、キャンディーズと続き、我がアグネスは第7位、得票は22,172票でした。
と、いうところで、また本編にもどりましょう。しばしの休息をはさみ、アグネス混迷の旅は、まだまだ続くのです。
といっても、次回(2001年3月)は、英語版の特集第2弾の作成と、資料収集のため、お休みをいただく可能性が高いです。すみません。なお、英語版特集は以前アップした
"Lover's Blue" のリメークです。好きなんです、これ、私。