19070年代初期まで、英語ポップスが若者たちの間で人気があったことは第四章で述べた。このような状況が一変するのは1973、74年ごろである。
1980年代に入っても広東ポップスは主流を占める。ただあまりに流布しすぎたために「外国曲オンチ」という状況を引き起こした。'80年代のはじめには台湾からキャンパス・フォークが到来し、ブームになった。また新たにレコード会社が次々に参入して一大産業化をとげ、マーケティングやプロモーションのやり方も発達して、歌手もプロデュースされる時代になった。しかし、相変わらず音楽の創作能力は不足気味で、外国作品のアレンジやコピー、カバーが多かった。バンド・ブームも起きたが、短命に終わった。
許冠傑が「鬼馬雙星」、「雙星情歌」を広東語で歌い、受け入れられたのである。これらは同名の映画「鬼馬雙星」で主題歌、挿入歌として使われた。ちなみにこの映画は日本でも公開され、邦題は[Mr. BOO!ギャンブル大将」である。
親しみやすいこれらの曲は、彼がそれまで英語ポップスを歌ってきたこと、香港大卒の高学歴であり知識層にアピールする力を持っていたことを背景として、広東ポップスに対する偏見を無くすことに大きく貢献した。これ以降広東ポップスは市民権を得、怒濤のように香港音楽界を席捲するようになる。それまで北京語ポップスを歌っていた歌手も広東語に転向するか、転向を余儀なくされたのである。
1970年代の重要な歌手としては、上記の許冠傑の他、羅文(ローマン・タム)、ウィナーズらがいる。
アグネスも'78年に復帰してから香港のクラウンと契約してアルバムを出すが、これが広東語だった。以降彼女が'85年までに香港・台湾で出したアルバムは、すべて広東語か北京語になった。最初に広東語でアルバムを作ったときは「新鮮でしたね」と語っている。
この時期のアグネスの広東ポップスを手がけた作詞家には盧國沾(ロー・クォッチャム)、鄭國江(チョン・クォッコン)らがいる。彼らは新しいテーマを開拓し、広東ポップスのイメージ・アップに貢献した作詞家である。また作曲家では顧嘉輝(ジョセフ・クー)、黎小田(マイケル・ライ)らがいる。彼らもまた広東ポップスに西洋音楽のリズムや和声などの要素を持ち込んでその発展に寄与している。
ところで、'70年代を代表するスターやアルバムには必ずと言っていいほど次の特徴があった、と前出の黄志華は指摘している。
(1)マーケティングやプロモートの仕方、宣伝を十分意識していない
(2)中国資本のレコード会社(クラウンもそうである)の勢力が大きくなった。
(3)オリジナルを作る力に欠けていた。いわゆるコピー、カバーが多かった。
(4)アルバムには曲稼ぎのための曲がしばしば収録されていた。
'80年代を代表する歌手としては、譚詠麟(アラン。タム)、梅艶芳(アニタ・ムイ)、張國榮(レスリー・チャン)らがいる。またバンドとしてはBeyond、達明一派らがいた。