日本デビュー
1972年の月刊「平凡」11月号の、モノクログラビアの見開きページにアグネスが紹介された。一方の写真はギターを弾いている姿、もう一方はソフト・ドリンクのストローを口に、ニッコリと微笑んでいる写真である。アイドル系の雑誌に彼女が写真入りで紹介されたのは、恐らくこれが最初と思われる。あいにく筆者の手元にはそのコピーしかなく、画像でお伝えできないのが残念である。
この企画では、彼女をどんな歌手にしたいかのアンケートを、懸賞付きで読者に募集している。雑誌が出たのは恐らく9月下旬のことである。まだデビューに関しても、時期等未定な部分のあった頃であることを考えると、やはり異例の扱いであったと思わざるを得ない。
驚くことに、同誌の翌12月号にも、11月号と同じく、見開きのグラビアページに彼女が紹介されている。「香港の学生スター/アグネス・チャン」というタイトルで、彼女の香港での生活の一端を紹介している。彼女のもとには、すでに日に30通ものファン・レターが日本から舞い込んでいたという。彼女の前途に、明るい兆(きざ)しではあった。
12月22日、アグネスは日本での本格的活動のために、空路来日し、羽田の地を踏んだ。その時の模様を、報知新聞は写真入りで次のように伝えている(1972年12月23日付)。
「来日、まるで夢のよう/アグネス・チャンが会見」
”抜群のタレント性””第二の欧陽菲菲”と前評判の高かった香港の歌手アグネス・チャンが、いよいよ日本で活躍するため22日来日し、さっそく東京・芝の東京プリンスホテルで「どうぞよろしくお願いします」とマスコミ関係者にあいさつした。
アグネスはまだ香港のマリー・クノール・シスターズ・スクール(ママ)在学中の17歳。南沙織よろしく長い髪と八重歯がチャームポイントの清潔ムード歌手だが、香港では昨年と今年、2年連続して十大歌手の一人に選ばれたという実績の持ち主。
たどたどしい日本語で「日本でお仕事できるなんて夢のよう。香港でも日本の歌謡界の厳しさは何度も聞きました。みんなにかわいがられる歌手になりたいと思います」と語っていたが、その周囲にはカメラマンを含めて約300人の報道陣がズラリ。まるで大物外人タレント並みの記者会見だった。
すでにレコードは11月25日にワーナー・パイオニアから「ひなげしの花」を出しているが、テレビは元日放送のフジ「夜のヒットスタジオ」を手はじめに、正月早々から各局の番組に出演する予定だ。
同日付の日刊スポーツでは、同じく写真入りの扱いで、「日本の第一印象?大きい国だと思った。香港と似ていて一目で好きになった。日本の歌手では、天地真理、小柳ルミ子、麻丘めぐみさんを知っています。出来るだけ長く日本にいたい」と語ったとも伝えている。[記者会見中のアグネス]
記者会見後、ホテルの中庭で、12月の日本の寒さに震えながら、それでも文句の一つ言わず、撮影会に臨んだアグネスは、当初の予定どおり、広尾の渡辺社長宅に落ち着いた。
最初の仕事は「紅白歌のベストテン」の正月用特番の収録だった。アグネスにとってこの仕事は忘れ難い思い出だという。彼女は、この収録で日本の番組作りに初めて接し、日本の歌手たちと初めて接し、彼女たちの間にある「しきたり」に初めて接した。
東京・浅草の国際劇場で行なわれたこの収録では、アグネスは8畳の楽屋に、麻丘めぐみ、ゴールデンハーフ、山室英美子(トワエモア)らと一緒に詰め込まれた。日本では全くの「新人」であるアグネスは、先輩格にあたるそのほかの歌手たちにまずあいさつしなければならなかった。上下関係がまだしっかり残っていた当時の芸能界にあっては、それは当然のことだった。このことは彼女自身、マネージャーから何度も念を押されていた。先輩歌手も彼女のあいさつを期待した。
しかし、なぜか彼女の口からあいさつの言葉出てこなかった。付き添っていた姉・アイリーンとときおり広東語で会話を交わすほかは、始終無言だったという。一種異様な雰囲気だったらしい。
番組作りにも戸惑った。たった1コーラスを歌うために、朝から晩まで拘束され、あてがわれた弁当は冷えきっていた。香港では考えられないこの扱いに、彼女の日本の印象は徐々に変化していった。
舞台でも勝手が違ったようである。騒々しい客席は歌を聴く雰囲気とは思えなかったし、たった1コーラスでは自分の思いも十分伝わらない。もし、このような状況がずっと続くなら・・・アグネスは不安を覚えた。
来日当初から、テレビ雑誌への露出度は、通常の新人とは比較にならないほど多かった。それだけスタッフの力の入れ方が違ったわけだが、それに反して反響はそれほど芳しいものではなかった。
アグネスは最初、シンデレラのイメージを、ということでロングドレスを着用し、ギターを抱えて座って歌っていた。アルバム「ヒナゲシの花」に見られるようなドレスである。今にして思えば、いかな渡辺プロと言えども、彼女のイメージをつかみ損ねていたと言える。しかし、思わぬ偶然が彼女のイメージを変えることになったのである。
それは明けて1973年1月7日、渡辺プロ恒例の新年会の席上だった。テレビ・雑誌などの関係者が1000人以上集まるこの大パーティーの席上で、アグネスは今年の新人として、ステージで紹介された。その時の衣装が、セーターにミニスカート、ハイソックスという、彼女に言わせればほとんど普段着に近い格好だった。アグネス自身は、このパーティーがどんなものかよく理解していなかったため、気楽な気持ちで、そんな格好で登場したという。ところが、その姿が居並ぶ関係者に好評だった。これを機に、彼女の衣装は変った。ミニスカートに白いハイソックス、厚底のくつという、彼女の定番スタイルが決まったのである。同時にギターを持つこともやめ、立って歌うことになった。ギターを持たなくなり、することがなくなった片手は、当時流行り始めたフィンガー・アクションを取り入れることで、その所在を得た。こうして、その後の彼女のイメージが、ついに固まったのである。それは、香港から引きずってきたフォークシンガーのイメージを一掃するものであり、新たなアイドル歌手「アグネス・チャン」の誕生であった。しかし、それは同時に、彼女が内包していく不協和音の静かな鳴り出しでもあった。もっともこの時点で、彼女がそのことにどれほど気づいていたかは、はっきりしないが。
ともあれ、この一大イメージチェンジは、大成功だった。ファン・レターは急増し、デビュー曲の伸びも順調だった。アグネスは一挙にアイドル歌手の仲間入りを果たしたのである。
そして、正月気分も抜けた1月27日、新橋・ヤクルトホールで、アグネスは初のリサイタルを開く。昼夜2回のこの公演は、スタッフのやる気と自信とは裏腹に、アグネス自身は不安でいっぱいだったという。
幸い、アグネスのこの不安は杞憂に終わった。フタを開けてみれば、所轄の消防署から注意が出るほどの盛況だったのである。
[緊張の舞台挨拶。もちろん日本語で]
[「ひなげしの花」を熱唱中のアグネス。笑顔は、ない]
[無事歌い終えてホッとひと安心]
リサイタルから2日後の1月29日月曜から、アグネスは転入先のアメリカン・スクール(調布)に通い始めた。歌手と学生の二重生活が日本でも始まったのである。当時アメリカン・スクールには、1学年下に南沙織がいた。彼女とアグネスはその後も交友が続いていく。
いよいよ、アグネスはワンダーランドに踏み込んでいくのである。