歌手からアイドルへ


 アグネスの人気はますます高まっていった。
 新人歌手として、アグネスと「同期」に当たる歌手には、中三トリオでデビューした、桜田淳子、森昌子、山口百恵らがいたが、彼女たちと比較しても、アグネスは一歩も二歩もリードしていた。
 アグネスはトップアイドルの地位を着々と固めていくわけだが、一足飛びに真のトップになれたわけでは、もちろんなかった。当時の真のトップアイドルといえばアグネスと同じ渡辺プロに所属する天地真理であった。

 1971年、ドラマ「時間ですよ」(TBS系)のオーディションで森光子に見いだされ、「二階のマリちゃん」でテレビ出演をきっかけに人気が沸騰、同年「水色の恋」(CBSソニー)で歌手デビューするや、一挙に国民的アイドルになった。彼女たちを指して「アイドル」と呼ぶようになったのもこの頃からである。それ以前は単に「スター」と呼ばれていた。天地真理は、その後に続くアイドル(歌手)の走りといってよい。
 彼女の人気の特徴は、老若男女の別なく幅広く支持されたことだ。とくに中学生や小学生に人気があり、彼らを対象にしたいわゆるキャラクター商品が数多く作られ、出回った。アグネス自身も認めているように、彼女の人気まさに別格と言ってよいものだった。
 彼女は、1976年頃を境に、不幸にして凋落していく。これ自体は起こるべくして起こったことだが、その凋落を早めたのがほかならぬアグネスだったという。ルポライターの桑原稲敏氏は著書の中で、このことを次のように書いている。
「特に、同じ渡辺プロに所属するアグネス・チャンの台頭は、天地真理にとって大きな痛手になった。若い歌謡ファンは、常に新しい”アイドル”を求めている。そこに現れたアグネス・チャンは、ファンの夢を満たしてくれるいくつかの条件を備えていた。香港出身というエキゾティズム、小柄で可憐な容姿と、さわやかな笑顔。そのため、これまで天地真理の人気を支えてきた小・中学生のファンが、この新しい”アイドル”にどっと移行していったのである。」

 アグネスも天地真理と同様、特に若年層に支持された。「彼女のファンのピークは、小学5年生の女の子だったと思います」引退前、彼女が最も信頼を寄せていたという元マネージャーの尾木徹氏は、そう語る。アグネスもまた、人形、自転車、学習机、等々、数々のキャラクター商品の対象になった。またコマーシャルにも多数出演している。[清涼飲料水のプレゼント企画
 もちろん本業の歌手としても、順調にヒットを飛ばしていった。詳細は第15章に譲るが、デビュー曲以来、4か月から5か月に1曲のペースでシングルを出している。彼女の音楽は、デビュー曲ですでに基本路線がヲされた。フォークを基調とした明るいポップス系のサウンド、いわゆる"アグネス・サウンド"は、その後もしっかり踏襲される。デビュー曲とそれに続く「妖精の詩」はヒットチャート5位止まりだったか、3枚目の「草原の輝き」で2位、そして4枚目「小さな恋の物語」待望の1位を獲得する。レコードの売り上げも最高の58万枚を記録している。これは言い方を変えれば、日本の58万人の人々が、彼女の音楽を認めたということである。デビュー曲こそ辞退したが、その後「草原の輝き」、「星に願いを」など数々の曲を手がけた平尾昌晃氏も、アグネスを「単なるアイドルではなく、才能や音楽性を持った少女」と、高く評価している。デビュー曲から数曲は、象徴的で詩的な内容で、フォーク出身の彼女には少々不満もあったようだ。しかし、彼女の主張もあって、徐々にストレートな男女の愛の歌に変っていく。相変わらず自分自身の作品ではなく、その意味で自分の伝えたい思いと若干相いれない部分もあったろうが、それはそれで、そのような歌も歌える自分の発見、という過程を楽しんでいたようである。

 1973年の新人賞は彼女が総なめにした。そして最後のしめが紅白出場だった。紅白は香港でも放映されているようで、アグネスもこの番組だけは知っていた。この大舞台に、新人として初登場したのである。日本に来てまだ1年。中三トリオの3人の誰一人として登場してはいない。快挙というべきだろう。その後74年、75年と3年連続して出場を果たしている。[日本歌謡大賞放送音楽最優秀新人賞受賞(1973年)][第24回NHK紅白歌合戦(1973年)
 さて、アグネスの音楽的功績として挙げられるのが、ニューミュージックと歌謡曲を 結びつけたことである。5枚目のアルバム「アグネスの小さな日記」では、キャラメル・ママ、加藤和彦らを起用し、その後もムーンライダーズ、ハイファイセット、矢野顕子らをバックミュージシャンとして起用している。

 レコードの売り上げだけを見た場合、さしものアグネスブームも8枚目のシングル「愛の迷い子」(1974年)で一区切りついた観がある。トップ100に登場した週数が、次の新曲発売までの週数を越えた(言い換えれば、トップ100チャートに2曲以上登場した)、あるいはほぼ同じ週数である曲は、上記を含め、1974年までのシングル8曲の内、5曲あった。1975年以降は、残念ながら、いずれも次の新曲を待たずにトップ100から姿を消している。ただ、1975年以降も、セールスとしては約10万~19万枚で、一般的にいえば十分ヒット曲の部類である。

 アグネスの芸能活動でもうひとつ特徴的なのが、ビザ書き換えのために、定期的に香港へ帰っていることである。アグネスは外国人芸能人招へいビザ(業務用)で来日している。このビザでは、滞在6か月で一旦本国に帰国し、改めて申請し直す必要のあるものである。もちろんアグネスとて例外ではない。1976年の引退までの香港との往来をまとめると、次のようになる。

(1)1972年12月22日~1973年 6月18日:日本滞在
   1973年 6月18日~1973年 8月 9日:香港帰国(52日)
(2)1973年 8月 9日~1974年 2月 4日:日本滞在
   1974年 2月 4日~1974年 3月15日:香港帰国(39日)
(3)1974年 3月15日~1974年 9月10日:日本滞在
   1974年 9月10日~1974年10月28日:香港帰国(48日)
(4)1974年10月28日~1975年 4月25日:日本滞在
   1975年 4月25日~1975年 6月 6日:香港滞在(42日)
(5)1975年 6月 6日~1975年11月25日:日本滞在
   1975年11月25日~1975年12月19日:香港帰国(24日)
(6)1975年12月19日~1976年 6月15日:日本滞在

 アグネスは都合6回、日本と香港を往復している。偶然かどうかは分からないが、彼女の帰国と日本の春休み、夏休み、冬休みはほとんど重なっていない。このように活動が断続的になっていたにも関わらず、他の人気歌手に伍して、高い人気を維持できたということは特筆に値する。加えて、彼女のウィークデイは学業に向けられていおり、その関係でコンサートなども東京や大阪などの大都市に限られるなど、活動が制限されていたことまで考えれば驚異と思う。
 香港帰国は里帰り、休暇の意味もあった。といっても、もちろん休暇にはならなかった。香港での芸能活動も依然として要求されていたし、日本からの香港への出張取材もあった。加えて、香港でのマネージメントは自分で行なわなければならなかったため、むしろ大変だったようだ。それでも、6月振りに愛する家族と対面し、母国語である広東語で思う存分会話できる嬉しさはひとしおだったろう。[1973年初めての帰国
 香港での活動は日数が限られていたため、かなりハードだったようだ。6回の帰国で、テレビドラマ(1時間もの、30回)に1本、映画に3本出演し、レコードを7枚出している。香港映画としてはこのほかもう1本があるがこれは日本ロケだったため、日本滞在中に撮っている。このほかに、雑誌の取材、TV出演など多数あったのは言うまでもない。(第17章参照)

 アイドルとしてのアグネスは、歌ばかりが活動のすべてではなかった。1973年の暮れには自分のラジオ番組がスタートし、明くる1974年初頭にはテレビ番組が始まった。歌だけでなく、その愛らしいキャラクターがファンに支持され、電波に乗って日本中を駆け巡ったのだ。また日本でもテレビドラマ、映画の出演が相次いだ。74年の暮れにはイラスト詩集も出版している。
 アグネスはアイドルの王道を着実に歩み続けたのである。

 一方アグネスは、父との約束どおり、日本に来ても学業はおろそかにはしなかった。アメリカン・スクールの最上級に編入した彼女は、1973年6月15日無事卒業した。[卒業証書を手に
 同年9月10日には上智大学国際学部に入学し心理学を専攻した。テニス部や弓道部に入部するなど、忙しい中でも、キャンパスライフを謳歌していたようだ。[テニス部にて]、[弓道部にて

 人気の高いアイドルといえど、いつまでも代わり映えしなければ、やがては飽きられるときがくる。もちろん、ずっと変らないでいて欲しい、というファン心理もあるが、一般大衆は移り気である。これが芸能界の新陳代謝を促す。売り手、つまりプロダクション側は「商品」の鮮度を保つため、あの手この手を考える。いわゆるイメージチェンジである。
 イメージチェンジはある種の危険が伴う。マーケットリサーチを十分にしていても、最後の評価が移り気な一般大衆であることがそういう危険を生じさせるのである。
 アグネスの場合は、その愛くるしい容姿が人気の重要な要素であったため、これをむやみに変えることは難しい判断だったに違いない。
 とはいえ、彼女の年齢も考えれば、いつまでもアイドルというわけにはいかない。そのことは本人が一番自覚していただろう。そんなところに「白いくつ下は似合わない」が登場する。
 この曲で彼女は白のハイソックスをやめ、髪を横分けに変えた。たったそれだけだったが、ファンの間では大きな反響を呼んだ。しかし、結局好意的に迎えられた。アグネスは次の一歩を踏み出すことができたのである。

 こうして、「アグネス・チャン」は、日本で最も成功した、最初の「非日本人」のアイドルとなっていくのである。

 



 さて、日本中がアグネスブームに沸く中、当の本人は一体どんな心境だったのだろう。彼女はいくつかの著書の中でそのことに触れているが、以下では、それらをもとに、少し述べてみたい。

 「歌手」アグネス・チャンにとって、当初、歌とは目的、つまりビジネスの対象ではなく、あくまでコミュニケーションのための手段に過ぎなかった。
 彼女を取り巻く環境は、もちろん彼女の歌をビジネスとして取り扱ったが、彼女自身その意識がどこまであったかは疑問である。もちろん聡明な彼女は、自分の周囲で何が起きているかは十二分に承知していたに違いない。しかし、少なくとも彼女にとって、歌を歌い、聴いてもらうことが第一義で、その商業的な側面は、あまり意識していなかったに違いない。と言うのも、当時彼女はまだ未成年で、プロダクション等との契約や月収(引退直前で200万円と推定されていた)の管理はすべて父親に任せており、彼女自身はほとんどタッチしていなかったからだ。このことからも、彼女は日本での活動を、もっぱら音楽活動そのものに重きを置いていたと考えられるのである。彼女は働きながら学ぶ勤労学生ではなく、ちょっとしたアルバイトをやりながら勉強を続ける普通の学生の意識だったのだ。
 さらに言えば、アグネスが日本に来たのも、ビジネスというより、自分の考えがどこまで通じるか、あるいは自分というものがどこまで受け入れられるかを、奇跡の技術立国、日本でも試したい、という思いからだった。この意味で、彼女の当初の意識はアマチュアであり、その延長線上のフォーク・シンガーの意識であった。
 ところが、日本での活動は、彼女の思惑とは全くかけ離れたものになっていった。彼女が大衆に受け入れられたと知るや、マスメディアは彼女に飛びつき、酷使しはじめた。仕事と学業で睡眠時間が大幅に削られる状況はすぐさまやってきた。
 マスメディアは、彼女に、歌だけでなくさまざまなことを要求した。「歌手」としてではなく、「アイドル」として扱おうとした。アグネスにとってそれは本意ではなかった。そういった仕事を持ち込んでくる彼女のスタッフたちとの間に、ある種の軋轢が生じるのは早かった。

 来日当初、壁になったのは言葉であった。意思の疎通がうまくいかないことで、彼女の苛立ちがつのった。一つ一つの仕事について、何故それをしなければならないのかの説明が十分なされず、プロダクションの一つの「商品」として、唯々諾々と従わざるを得ないことが、アグネスにとってはことさら苦痛だった。言葉の問題はその後徐々に解消していくが、彼女の活動がプロダクション主導で、彼女の主張がなかなか通らない状況は変わらなかった。
 苛立ちが限界に達したとき、彼女は爆発した。彼女の怒りのほこ先は、仕事との接点であるマネージャや付き人らに向けられた。好き嫌いがはっきりしていた彼女は、一度嫌になるとどうしようもなかったらしい。引退までの約3年半の間、彼女のマネージャは7回替わったという。
 もともと友達作りが上手でなく、まして芸能界という特殊な環境の中で、アグネスは腹を割って話せる友人を持つことができなかった。日本においてアグネスは孤立無縁の状態だった。自分を守るのは自分しかいない。一歩でもひけば負けだ。アグネスは、周囲に対して対決色を強めた。なにかトラブルが発生した場合、彼女は決してひかなかったという。彼女の立場、主張をほんの少しでも理解しようとする気持ちが、彼女のスタッフたちにあれば、衝突の大部分は起こさずにすんだはずだ。が、あいにくそうではなかった。自己主張が元来うまいほうではなく、さらに不自由な日本語で議論することは、アグネスにとってできない相談だった。いきおい、内に閉じこもるような態度になってしまう。それが、周囲には気難しく暗い娘、という印象を与えることになった。彼女とスタッフらとの関係は人間的な温かみが希薄になり、いわゆるビジネスライクな、ドライな関係になっていく。このこと自体も彼女の意とするところではなく、苛立ちをつのらせる一因になっていった。
 もちろん相性という面もあったに違いない。現にアグネスも森(ゆうへい)氏や、前出の尾木氏のようなマネージャーには、信頼を寄せていたようである。

 ビジネスを進める上で、お互いの人間的関係にまで踏み込む必要があるかどうかについては、意見の分かれるところである。その時々の状況やその人たちの性格にもよって、ある時には必要であり、ある時には不必要になるのだろう。アグネスとそのスタッフたちの場合は、もう一歩、半歩でもお互いに人間的に歩み寄っていたら、あるいは状況は変わっていたかもしれない。もうちょっとの努力があれば。それは、彼女のスタッフたちにも、そして実は彼女自身にも言えることだった。それが、さまざまな原因でうまくなされなかったのは、まことに不運なことであった。
 そんなアグネスも、仕事の現場で穴を開けることは決してしなかった。どんなことがあったにせよ、最後は仕事の現場に戻ったという。「・・・そういう意味では非常にプロに撤したシンガーだと思いますね。スタッフとのトラブルなどがあっても、いったんカメラの前なり、ステージに立ってしまえば、自分が納得するまでとことんやる。私の経験では、こういうタイプは男では沢田研二、女はアグネスだと思いますね。」尾木氏も彼女をこう評価する。彼女のこういった態度は、彼女のために集まってきてくれた人々に対する責任感に裏打ちされたものであり、彼女の性格から、それを裏切るようなことは絶対にできることではなかった。その上、彼女のファンは、彼女にとって自分を分かってくれる友達だとの意識があったため、なおさらだった。

 不慣れな日本の芸能界にあってうまくなじむことができず、大勢の人々に取り囲まれながらも、孤独感にさいなまれ、鬱屈したものを常に抱えざるを得なかったアグネスにとって、ファンとのふれあいは、唯一自分を取り戻し、息のつける機会になった。これこそが、彼女が求めていたものだった。彼女は、自分が単に歌手としてだけでなく、アイドルとして見られていたことは十分承知していた。それでも、「アグネス、アグネス」と慕う、年端もいかない小学生も、熱烈な声援を惜しまない若者たちも、彼女にとって等し並みに大切な友達だった。何よりも彼女は、ファンとの絆を大切にしたのである。たとえ、夜中、寄宿先の渡辺社長宅にまで押しかけ、彼女の貴重な眠りを妨げることがあっても。彼らだけが、彼女らだけが自分を分かってくれている。アグネスはそう信じたのである。そのときのコミュニケーションの手段は、言うまでもなく歌であった。

 しかし、歌に対する考え方に、変化が出始めた。仕事に慣れ、おもしろさが分かるようになるにつれて、ビジネス指向が前面に出てくるようになったのである。よい音楽プロデューサーやディレクターに巡り会ったおかげもあるが、自分の音楽的才能を伸ばし、本格的なミュージシャン、アーティストになろうと考え始める。同時に聴かせるだけでなく、観せることも取り入れた、いわゆるエンターテナー指向も出てくる。もちろんその裏には、よい歌を、心に残る音楽を、より多くの人に、という思いであり、それはそれで結構なことである。しかし、当初あった、歌に対する純粋な気持ちは、陰に隠れてしまった。
 アグネスにとって歌は「仕事」ではなかったはずだ。「歌手」が生涯の目標でもなかったはずだ。彼女の夢、生涯の目標は「将来は小学校の先生か若者のカウンセラーになるか、幼稚園を開きたい」だったはずだ。上智で心理学を専攻したのもこの理由からだ。また、上智を辞め、カナダの大学に移りたい希望も持っていたのも、カナダのような英系の大学で取った学士の資格でなければ、香港では通用しないからだ。このことを、彼女は忘れたわけではなかった。しかし、それを具体化することが、その時の環境ではなかなかできなかった。これも彼女の悩みの一つであったはずだ。それが徐々に変っていく。
 経験を積むに従って、考え方が変わるのはむしろ当然であり、それ自体否定するものでは全くない。だが、アグネスの場合、そのような考え方の変化が、果たして熟慮の結果であったかどうかである。忙しさに紛れ、自分のおかれた現状を無意識のうちに追認し、自己正当化するための変化であれば、こんな不幸なことはない。

 もうひとつ、アグネスが情熱を燃やしていたボランティア活動がある。定期的に活動は続けていたようだが、公に施設を訪問することは、極端に少なくなった。伝えられているのは、1974年の2度目の里帰りの時と、同年12月京都の施設を訪れたことの2回のみである。そこはアグネスにとって原点、歌との出発点だったはずだ。その思いは当然彼女の頭をよぎったに違いないが、さりとてどうこうすることもままならない。もはや住む世界が異なってしまったのだ。複雑な思いだったろうが、それさえも忙しい日々の中で意識の底に埋没していく。

 一体私はどこに行くのだろう。一体私は何者なのだろう。一人の女、陳美齢は苦悩する。しかし、自分を見つめ、明らかにし、明確な自己を持った一個の自立した人間になっていくために、思索すべき貴重な時間はもはや失われた。
 常に人々の中心にいて、注目を集め、大事にされている「アグネス・チャン」は、まさに虚構の存在、上手にできた操り人形に過ぎなかった。実在である陳美齢は、たまらなくなってきた。自分のやりたいことを、自分一人でやってみたい。普通の女がしている普通のことを、自分でやってみたい。自分は自分でありたい。そういう思いが、彼女を煩悶させる。
 だが、学生とアイドルのかけ持ちで、まるでジェットコースターに乗っているように毎日が過ぎていく、そんな生活の中で、アグネスは次第に自分を見失いがちになっていく。いけない、いけない、と警告を発する自分を意識しないわけではなかったが、立ち止まって考える余裕はもとよりなかった。

 アグネスは、感性のおもむくまま生きるには、あまりに知的でありすぎた。同時に、知性に生きるには、あまりに感性が豊かすぎたのだ。東洋と西洋の接点、香港に生まれ、伝統的な中国思想の上に、西洋的な思考を身につけたアグネス。両親の愛情をいっぱいに受け、真面目で、一途で、好奇心に満ちた少女となったアグネス。そんな彼女が、可憐な容姿で、1970年代という時代に登場したとき、彼女の運命は決まった。彼女が好むと好まざるとにかかわらず、運命の女神は、彼女を引きずり回したのだ。運命の女神は、一人の少女の幸不幸など、一顧だにしない。だが、当の本人に取ってみれば、それは重大問題だった。しかし、たとえそれが意識されたにせよ、彼女にはどうすべくもなかった。彼女の運命は、大河のごとく、彼女を押し流し、留まることを知らなかったのである。

 



 やがて、学業も仕事も単なるルーチンワークとなっていき、日々の忙しささえ常態になり、しかもそれを疑問に思うもう一人の自分も、いつのまにか消えうせていく。
 表面上は、一見順調な毎日が過ぎていった。しかし、その先がどこに向かっているのかは誰にも分からなかった。

 



 1975年6月、仕事の関係で日本に来ていた父陳燧棠は、そんな状態のアグネスを見て血相を変えた。娘の置かれている状況も異常だが、それを異常とも思っていない娘の発言の方にもっと異常を感じたに違いない。このままでは娘はだめになってしまう、彼はそう思ったことだろう。恐らくこの時から、彼は早晩娘を芸能界から引退させる気になったと考えられる。

 そして1年後の1976年6月。アグネスの6度目の帰郷を待っていたのは、陳燧棠の引退勧告だった。



 

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